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石井裕の“デジタルの感触” 第10回

石井裕の“デジタルの感触”

独創の追求

2007年09月22日 05時38分更新

文● 石井裕(MITメディア・ラボ教授)

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アイデアの源泉に対する敬意


 すべての新しいアイデアには、そのルーツとなった既存のアイデアが存在する。そのルーツとなった研究、あるいは参考にした先行研究に対して敬意を表し、明確なクレジットを表記することは不可欠である。お互いのアイデアに知的刺激を受け、それを引用しながら、それを越えるアイデアを出し合う。この健全なギブ・アンド・テイクの関係が、研究競争のあるべき姿だ。その結果、多くの後進に影響を与え、論文が何度も引用される根本的な研究を成し遂げた研究者は、パイオニアとして大きな名誉を得ることになる。

 クレジットを明確にしないまま他人のアイデアを勝手にコピーし、あたかも自分のアイデアであるかのように発表することは倫理的に許されない。この倫理観が非常に徹底した米国では、常にアイデアのルーツを追求して誰がそのアイデアを最初に思いついたのかを明記する。そのうえで、自分が新しく貢献した点がどこにあるのかを議論するのだ。これはコピーライトの思想にもつながる。

 残念ながら、日本では必ずしも知的財産の所有権に関する意識や、きちっとクレジットを表記する作法が十分に確立しているとは思えない例がいくつか見られた。新しいアイデアを育む土壌としては、あってはならないことだ。


誰からも評価されないときの2つの道筋


 よく学生にする質問がある。

「もし君たちが、超革新的でオリジナルな究極のアイデアを生み出したとしたら、世界はどのように反応すると思うか?」

 ほとんど誰も理解できないほど突出した先進的なアイデアを発表すると、むろんそれを素晴らしいと評価できる審査員も存在しない。すなわち誰も評価してくれない、絶対的な孤独が起きうる。それは、独創的研究者として到達する究極の境地だということもできよう。

 ただし、気をつけなければいけないこともある。もし誰もその素晴らしいアイデアを理解/評価できない状況に至ったら、そこには2通りの可能性が存在している。ひとつは世界の誰も十分に理解できないほどアイデアが革新的な場合であり、もうひとつは本当にそのアイデアがただのゴミである場合だ。独創的であればあるほど、周囲から理解/評価されにくいというジレンマに陥る。そのとき前者であると自分を信じ続けられなければ、絶対的孤独を乗り越えて、独創を追求することはかなわないのである。

(MacPeople 2006年4月号より転載)


筆者紹介─石井裕


著者近影

米マサチューセッツ工科大学メディア・ラボ教授。人とデジタル情報、物理環境のシームレスなインターフェースを探求する「Tangible Media Group」を設立・指導するとともに、学内最大のコンソーシアム「Things That Think」の共同ディレクターを務める。'01年には日本人として初めてメディア・ラボの「テニュア」を取得。'06年「CHI Academy」選出。「人生の9割が詰まった」というPowerBook G4を片手に、世界中をエネルギッシュに飛び回る。



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