送り手の痕跡、受け手の痕跡
芸術作品「永訣の朝」は、活字を拾い、印刷機で大量に複製されるプロセスにおいて、オリジナルの原稿に塗り込められていた芸術家の身体の痕跡をすっかり拭い去られ、乾いたメディアに変質してしまう。そして、そのメディアの受け手であった20代の自分は、ナイーブにもそれが宮沢賢治の詩のすべてなのだと信じ込んでしまった。
しかし、私の文庫本にもまだささやかな救いがあった。私と一緒に旅した文庫本は、あちらこちらのページに残された書き込みや折り目、シミや変色の跡により、読み手だった10、20代の私の身体の痕跡、そして精神の軌跡を残していた。あちこちに残された書き込み、ユースホステルで夕食のときに飛んだ醤油のシミ、握りしめたページに残された指紋。だから、古ぼけた文庫本は今でも私の宝物だ。
効率至上主義が覆い隠した情報の本質
印刷技術の発展による大量生産のおかげで、芸術作品のテキストは誰でも容易に入手できる市井の存在へと変化した。しかし、大量生産に適した表現形式に落とし込むことによって失われた、原作者の身体の痕跡、苦悩のプロセスの跡を嘆く声を聞いたことはない。
さらに、文字コードやフォントの標準化は、デジタル時代における情報の表現伝達効率と互換性を向上させ、インターネットの世界でテキスト表現の普及を促進する。このデジタル化された芸術作品をスクリーンとマウスで読むことにより、残す機会を失った読み手の身体の痕跡について、悲しむ声もあまり聞かない。
デジタルの世界は乾いている。
それは、デジタルだからではない。どれだけ情報を削ぎ落として圧縮できるかという技術効率至上の考えが、人間的な温もりや感動を伝える情報の中身は何なのかという、本質的議論に優先しているからである。
「永訣の朝」の肉筆原稿や古ぼけた私の詩集は、今日のデジタル世界に欠けている身体の痕跡の意味を問いかけている。
身体が直接触れ、その痕跡を残せる紙という物理メディアの特質──それが、今私がMITで研究しているタンジブル・ビットの思想につながるルーツのひとつになっている。
(MacPeople 2005年8月号より転載)
筆者紹介─石井裕
米マサチューセッツ工科大学メディア・ラボ教授。人とデジタル情報、物理環境のシームレスなインターフェースを探求する「Tangible Media Group」を設立・指導するとともに、学内最大のコンソーシアム「Things That Think」の共同ディレクターを務める。'01年には日本人として初めてメディア・ラボの「テニュア」を取得。'06年「CHI Academy」選出。「人生の9割が詰まった」というPowerBook G4を片手に、世界中をエネルギッシュに飛び回る。
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