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3000種類以上の細胞を特定、「脳アトラス」は何をもたらすか

2023年10月24日 06時57分更新

文● Cassandra Willyard

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Stephanie Arnett/MITTR | Wellcome Collection

画像クレジット:Stephanie Arnett/MITTR | Wellcome Collection

ヒトの脳細胞の位置とそれぞれの役割などを詳細に記述した「全脳細胞アトラス」が発表された。同様の試みは過去にもあったが、今回のアトラスは前例のない解像度で脳細胞を描き出している。

この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。

科学者が初めて顕微鏡で脳組織を観察した時、目にしたのは非常に複雑に入り組んだ混乱状態だった。現代神経科学の父、サンティアゴ・ラモン・イ・カハルの研究に関する書籍『The Beautiful Brain(美しい脳)』(未邦訳)の著者は、カハルの経験を「1000億本の木が生えている森に入り込んで毎日そのうち数本が絡み合ってぼやけた断片だけを眺め、数年後にその森に分け入るためのフィールドガイド図鑑を書くようなもの」だったと表現した。

そして今、科学者たちはその「フィールドガイド」の初稿を作成した。3冊の学術誌に発表された21に及ぶ一連の新しい論文の中で、研究チームはヒト、そしてほかの霊長類の大規模な「全脳細胞アトラス」を作成したと報告した。この研究は米国立衛生研究所の「ブレイン・イニシアチブ(BRAIN Initiative)」の一環であり、5年間にわたる研究の集大成だ。「これは単なるアトラス(地図)ではありません」と、アレン脳科学研究所(Allen Institute for Brain Science)の神経科学者であり主執筆者の一人であるエド・レイン主任研究員は言う。「今まで不可能とされていた生物種の脳細胞を非常に高い解像度で観察できるようになりました。これによってまったく新しい分野が切り開かれていくでしょう」。

脳アトラスとは何か? 今までと何が違うのか?

脳アトラスは脳の3Dマップだ。これまでにも複数の脳アトラスは存在していた。しかし今回の新たな一連の論文は、ヒト、そしてほかの霊長類の脳全体を、前例のない解像度で描き出している。ヒトの脳アトラスには、成体および発育中の個体の3000種類以上の細胞の位置と機能が記載されている。「このアトラスはヒトの脳を非常に高いレベルで完全に説明しており、多くの脳領域について初めての説明も付け加えています」と、レイン主任研究員は言う。しかし、これはまだ初稿にすぎない。

この研究は「ブレイン・イニシアチブ・細胞センサス・ネットワーク(BRAIN Initiative Cell Census Network)」の一環であり、包括的なマウスの3D参照脳細胞アトラスを作成することを目的として2017年に開始された(同プロジェクトは現在も進行中)。10月12日に報告された結果は、マウスに使用した手法がより大きな脳にも通用するのか検証する一連のパイロット研究の成果の一部だ。先に答えを言ってしまうと、この手法は通用した。実際、非常に上手く機能したのだ。

一連の初期研究から分かったこと

人間の脳は、本当に本当に複雑だ。その複雑さは衝撃的だ。研究チームはこれまでに3300種類以上の細胞型を特定してきた。さらに解像度が上がれば(チームが現在取り組んでいる内容はこれだ)、さらに多くの発見が得られるだろう。マウスの脳アトラスを開発する取り組みはさらに先を行っており、すでに5000種類の細胞型が特定されている(詳細は12の査読前論文で確認できる)。

しかし、脳の複雑さには共通点がいくつかある。たとえば多くの領域は同じ細胞型を持っているが、その割合が異なっている。

位置関係の複雑さにも驚かされる。神経科学の多くの研究は、脳の外側にあり、記憶、学習、言語などをつかさどる大脳に焦点を当ててきた。しかし、「実は細胞の多様性のほとんどに、脳の奥深くにある古い進化構造が関与している」とレイン主任研究員は言う。

アトラスはどのようにして作られたか

古典的な神経科学では細胞型を、細胞の形状と細胞の活動タイプのいずれかに依存している。細胞の形状による分類の例としては、星形の星状膠細胞(アストロサイト)などが挙げられ、細胞の活動タイプによる分類の例としては、高速発火介在ニューロンなどが挙げられる。「しかし今回の細胞アトラスは、ゲノミクスから生まれた一連の新技術を利用しています」とレイン主任研究員は言う。主に「シングルセル(単一細胞)解析」と呼ばれる手法だ。

研究者はまず、バイオバンクから取り寄せた凍結した脳組織の小片を取り出す。「組織を取り出して粉砕し、多くの細胞をプロファイリングすることで解明を進めるのです」。つまり、細胞核の塩基配列を解析し、発現遺伝子を調べるという作業だ。「各細胞型には、通常使用する一貫した遺伝子群が存在します。これらの遺伝子は全て測定可能であり、すべての細胞型は全体の遺伝子発現パターンに基づいてクラスター化することができます。そしてドナーの脳画像データを使用すれば、この機能情報を適切な空間に配置できます」。

科学者は脳細胞アトラスをどのように利用できるのか

脳細胞アトラスの用途は多岐にわたる。とりわけ重要な用途は、脳疾患の原因の理解促進だ。 「正常脳や定型発達脳に関して記述している脳アトラスは、研究者がうつ病や統合失調症、その他多くの種類の疾患を理解するのに役立ちます」と、レイン主任研究員は述べる。アルツハイマー病を例にとってみよう。同様の手法を適用すれば、異なる重症度のアルツハイマー病患者の脳の特徴を調べ、その脳マップを参照アトラスと比較できる。レイン主任研究員によれば、「特定の細胞が病気に対して脆弱なのか、それともその細胞が病気の原因なのか」といった問題提起も可能になったという(レイン主任研究員はチームの一員としてすでに研究に参加している)。研究者たちはプラーク(異常な小斑点)や複雑に入り組んだ部位を調査するのではなく、「無秩序化しており、機能に影響を及ぼしていると思われる、実際の回路要素である特定ニューロン」について質問できるとレイン主任研究員は言う。

次の段階

次は、解像度の向上だ。「次の段階は、ヒトおよびヒト以外の霊長類の、生体および発達段階の脳を包括的に網羅することです」。実はこの取り組みはすでに、予算5億ドルの5年間にわたるプロジェクト「ブレイン・イニシアチブ・細胞アトラス・ネットワーク(BICAN:BRAIN Initiative Cell Atlas Network)」で始まっている。 目的は、ヒトの生涯にわたって脳に発生する細胞型の完全な参照アトラスを作成すること、そしてさまざまな脳障害の根底にある細胞相互作用をマッピングすることだ。

その精密さは、ラモン・イ・カハールさえも想像できないものになるだろう。

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脳アトラスは、少し前から存在していた。コートニー・ハンフリーズは2013年、脳を7000以上スライスしたMRI画像に基づくヒトの脳アトラスである「ビッグブレイン(BigBrain)」を作成したと報告した

MITテクノロジーレビューは2017年、人体の全細胞の分類を目的とした「ヒト細胞アトラス(Human Cell Atlas)」プロジェクトを「ブレークスルーテクノロジー10」の一つとして紹介した。このプロジェクトは現在も進行中だ

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