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ハリル解任、田嶋JFA会長の話が納得できない本当の理由

2018年04月27日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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ハリルホジッチ氏は日本代表監督を解任された理由に納得していない
Photo:AFLO

ワールドカップ・ロシア大会の開幕まで2ヵ月あまりに迫った段階で、日本代表監督を電撃解任されたヴァイッド・ハリルホジッチ氏(65)が4月27日午後4時から、東京・千代田区の日本記者クラブで記者会見に臨む。急病などやむを得ない緊急事態時を除けば、日本サッカー協会(JFA)のトップとなる会長が日本代表監督の去就にタッチした事例は、サッカーがプロ時代へ舵を切られた1992年以降で3度目。当時の指揮官を続投させた長沼健、岡野俊一郎両会長(ともに故人)が下した決断と比べて、田嶋幸三会長(60)による今回のハリルホジッチ前監督の解任は、曖昧さと分かりにくさを残し、ハリルホジッチ前監督が来日した上で反論会見を開く前代未聞の事態を招いている。田嶋会長の決断は、なぜこれほどまで後味の悪さと不可解さを残してしまったのか。過去3度の事例をあらためて比較・検証した。(ノンフィクションライター 藤江直人)

3度も起きた会長による日本代表監督の人事介入
「加茂監督」続投に見た長沼会長の“覚悟”

 雇い主となる日本サッカー協会(JFA)のトップと、雇われる側となる日本代表チームのトップ。両者の距離は近いようで、遠い。Jリーグの設立とともに、サッカー界全体がプロ時代へ舵を切った1992年以降は、JFA内の専門委員会のひとつである強化委員会あるいは技術委員会が間に入ってきたからだ。

 同委員会は代表監督及び代表チームをサポートしながら、一方で委員長を中心として監督の仕事や手腕に対する評価も担当する。例えば、長く国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めたスポーツ界の重鎮で、1998年から二期4年に渡ってJFA会長を務めた岡野俊一郎氏(故人)はこう語っていた。

「会長が代表チームに絡むべきではないと、基本的には考えています」

 しかし、イビチャ・オシム監督が脳梗塞に倒れた2007年11月と、スペインリーグ時代に八百長行為に関与したとして、ハビエル・アギーレ監督が地元検察に起訴された2015年2月の緊急事態を除けば、JFA会長が代表監督の去就にタッチした事例は1992年以降で3度を数える。

 1度目は1995年11月。読売クラブや日本代表で守備の要として活躍した加藤久氏を委員長とする強化委員会は、国際舞台で指揮を執った経験の乏しい加茂周監督のもとでは、1998年のフランス大会で悲願のワールドカップ初出場を目指すアジア予選を勝ち抜けないという判断の下、更迭を決断する。

 後任として内定させたのは、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を率いていたブラジル人のネルシーニョ監督。ヴェルディ側の了承を取り付け、ネルシーニョ側とは年俸など具体的な条件の交渉も開始していた矢先に状況が激変する。

 2002年ワールドカップの招致活動から帰国した長沼健会長(故人)が、代表監督選定で権限を持たせていたはずの強化委員会の決定を覆す、まさに「鶴の一声」で加茂監督の続投を決めた。大騒動に発展した過程が説明された記者会見で切られた長沼会長の啖呵は、今も語り継がれるほど強烈だった。

「加茂でフランスに行けなかったら、私が会長を辞める」

 面子を潰された加藤氏は委員長を辞任し、強化委員会は半ば解散状態となった。そして、梯子を外されたネルシーニョ監督は激怒し、こちらも今なお語り継がれる強烈なカウンターを放っている。

「日本サッカー協会に代表監督を選ぶ権利はあるが、おふざけをする権利はない。長沼は嘘つきで腐っている。残念ながら、箱の中には必ず腐ったミカンがあるものだ」

 最終的に加茂監督は解任されている。アジア最終予選を戦っていた最中の1997年10月4日。敵地アルマトイで対峙したカザフスタン代表に後半アディショナルタイムに追いつかれ、通算成績が1勝2分け1敗となった深夜に行われた緊急会談で、岡田武史コーチの監督昇格が決まった。

 大仁邦彌氏(JFA前会長)をトップとする技術委員会の答申を受けた、長沼会長をはじめとするJFA上層部が加茂監督の更迭を最終的に決めたからだ。当然ながら1995年11月に切った啖呵が蘇ってくる。自身の責任を問う声を、長沼会長はこんな言葉で跳ね返している。

「任期満了をもって責任を全うする。それがサッカー界におけるやり方だ」

 長沼会長と加茂監督は関西学院大学の先輩後輩の間柄であり、強化委員会の決断が覆される形で続投が決まった時には、2人の「縁」も背景にあるのではと指摘された。一方で当時のJFAは財政的に苦しく、ネルシーニョ側が希望してきた条件と大きく乖離していた。

 強化委員会が提示した条件との溝を埋められる見込みもなく、代表監督人事が宙ぶらりん状態になりかけていた。長沼会長が鬼籍に入って久しい今では確認のしようもないが、大きな非難を浴びながらもなお裁定を下したことで、結果としてさらなる混乱に陥る前に終止符が打たれている。

2度目は2002年日韓ワールドカップ前に
「トルシエ監督」契約延長を決めた岡野会長の“期待”

 2度目の事例は2000年6月。契約が満了に近づいていた、フランス人のフィリップ・トルシエ監督の去就を巡ってJFAは大きく揺れていた。韓国との共同開催となる2002年ワールドカップを控えた代表チームの成績は低空飛行を続け、何よりもトルシエ監督が何度も見せた、エキセントリックな立ち居振る舞いに辟易している人間が少なくなかった。

 まずは温厚な性格で知られる、技術委員会の大仁委員長が1999年夏に匙を投げた。長沼会長からバトンを受け継いでいた岡野会長は、技術委員会に代わるサポート組織として2002年強化推進本部を急きょ設立。トップとなる本部長に、今も日本代表の通算得点ランキングでトップに立つ不世出の名ストライカー、JFAの釜本邦茂副会長を据えた。

 ワールドカップ・フランス大会後に就任したトルシエ監督との契約は、2000年6月末で切れる。しかし、3月の中国代表戦をスコアレスドローで終え、4月の韓国代表戦では0‐1で敗れた軌跡とトルシエ監督の性格とが相まって、事態は抜き差しならぬ局面に陥っていた。

 そして、韓国戦後に2002年強化推進本部は極秘裏に集まり、契約延長か、あるいは契約満了に伴う退任かを選ぶ多数決を採った。メンバーは全7人。結果は4人に対して3人と退任派が上回った。もっとも、2002年強化推進本部に決定権はなく、最終的な判断は岡野会長に一任されることになった。

 迎えた6月19日。緊急事態を受けて代表監督人事に携わった岡野会長が下した裁定は、2000年10月末までの契約延長オプションを行使することだった。当然ながら2002年のワールドカップ日韓共催大会も見据えられていて、日本代表を9月のシドニー五輪でベスト8に、10月のアジアカップでは優勝に導いたトルシエ監督との契約はさらに延長された。

 多数決による2002年強化推進本部の答申を覆す形で、トルシエ監督の続投を支持した最大の理由として、岡野会長は継続的な強化が実を結びつつある状況を挙げた。

 トルシエ監督は就任から間もなくして、契約条項の中になかったユース代表(現U-20代表)監督を兼任した。チームの中核を成す、1979年生まれのいわゆる「黄金世代」に大きな可能性を見出したのだろう。果たして、1999年3月にナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(現FIFA・U-20ワールドカップ)で、日本は準優勝という快挙を達成する。

 そして、1999年6月に幕を開けた、シドニー五輪出場をかけたアジア予選で「黄金世代」を積極的に引き上げた。五輪代表(現U-23代表)は無類の強さを発揮して、アジア予選を無敗で通過。予選なしでワールドカップに臨める点を逆算する形で、2000年に入るとシドニー組の主力をいよいよA代表と融合させる作業に入っていた。

 実際、岡野会長の裁定が下される直前にモロッコで開催されたハッサン二世カップで、最終的にはPK戦で屈したものの、トルシエ監督に率いられた日本代表はワールドカップ王者フランス代表から、二度もリードを奪う大熱戦を演じている。

「確かに問題はあったけれども、チーム力が伸びつつあるときには監督を代える必要はない、というのが私の結論でした。私が見ている範囲では、チーム力が確実に上がってきていたので」

 1964年の東京五輪、そして銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪で日本代表のコーチを務めた岡野会長は、ユース代表を指揮した経験を持つ。釜本や杉山隆一を高校生年代から指導し、プレースタイルだけでなく性格も熟知していた岡野コーチの存在があったからこそ、釜本をはじめとする、大学を卒業したばかりの若手がベテラン勢の中で躍動した。

 岡野会長自身の経験にも則った、継続的な強化の重要性を物語るように、日韓共催大会ではワールドユース組から小野伸二、稲本潤一、中田浩二、小笠原満男、曽ヶ端準が代表メンバー入り。シドニー五輪世代からも宮本恒靖、柳沢敦、明神智和、松田直樹(故人)らが代表に名前を連ね、2度目のワールドカップ挑戦にして初めて決勝トーナメント進出を果たしている。

田嶋会長のハリル監督解任理由は、
「もっと大きな問題がある?」と勘繰りたくなる内容

 そして3度目の事例が、まだ記憶に新しいヴァイッド・ハリルホジッチ監督の電撃解任となる。ワールドカップ・ロシア大会の初戦まで、2ヵ月あまりと迫った中での異例の人事が田嶋幸三会長の独断で下されたことは、直前まで技術委員長を務めていた西野朗新監督のこの言葉が端的に物語っている。

「技術委員長として精いっぱいやってきたつもりですけれども、足りなかったと痛感しています。監督同様(に解任)、ということになると思ってもいました。今回の決断において、自分が要請されたということに対する戸惑いはもちろんありました」

 ハリルホジッチ監督を4月7日付けで解任した理由に関して、田嶋会長は同9日に東京・文京区のJFAハウスで開催した緊急会見で、マリ代表及びウクライナ代表と対戦した3月下旬のベルギー遠征中に、日本代表チーム内に生じたネガティブな変化を挙げている。

「ハリルホジッチ監督と選手たちとのコミュニケーションや、信頼関係の部分が多少薄れてきた。それが最終的なきっかけになったのは事実であり、それまでのさまざまなことを総合的に評価して、今回の結論に達しました」

 プロフェッショナル同士の監督と選手たちの間には、結果を追い求めていく上で、当然ながら意見の相違や多少の軋轢が生まれる。招集されても起用されない選手たち、そして当落線上にいながら招集されなかった選手たちの中には、もちろん不満が蓄積されていくだろう。

 歴代の日本代表チームも然り。そうした困難を乗り越え先に、団結力というプラスアルファが生まれる。だからこそ、田嶋会長が指摘したコミュニケーションや信頼関係という言葉は、残念ながら説得力を持たない。加えて総合的な評価という言葉も曖昧さに拍車をかけ、もっと大きな問題が背後にあるのでは、と勘繰りたくなる思いも禁じ得なくなる。

 渡仏した田嶋会長から現地時間4月7日夕方に、パリ市内のホテルで直接解任を告げられたハリルホジッチ氏が納得できずに激怒。違約金などが記された書類の受け取りを拒否し、なぜこの時期に解任されるのかと反論した真意も、曖昧さという観点で見ればある意味でうなずける。だからこそ来日時に思わず涙を流し、27日午後4時からは東京・千代田区の日本記者クラブで記者会見を開く。

 さらにつけ加えれば、チーム内に生じた好ましくない変化を察知し、いい方向へ導いていくサポート役を担うのが技術委員会となる。トップだった西野委員長を新監督に据える、責任の所在を考えれば不可解となる人事の理由に対しても、田嶋会長は「緊急事態」という言葉に集約させた。

「新しい監督については、こういう緊急事態だからこそ内部からの昇格しかないと考え、このチームをずっと見てきた西野さんに決めました。ここまでの代表チームの準備を知っていて、ハリルホジッチ監督をサポートしようと最後まで頑張っていたので」

覚悟と期待が見えた歴代のトップの決断、
田嶋会長の言葉からは覚悟も期待も伝わらない

 選手たちを集めて準備する時間が、実質的に1ヵ月しかない事実を常識的に考えれば、リスクよりもデメリットの方がはるかに大きい決断と言わざるを得ない。今回の人事を「会長の専権事項」と位置づけた田嶋会長には、必然的にロシア大会における結果に対する責任が生まれる。

 日本代表が常に求められてきたグループリーグ突破を、西野新監督の下で逃した場合は、自身の去就に対してどのような判断を下すのか。対立候補が不在だった会長選で再選され、3月下旬から2期目を務めている田嶋会長は、ハリルホジッチ前監督の解任会見で明言を避けた。

「その時々で日本サッカー界の成長のために必要な決断を下していくことが、会長の責任だと私は思っています。私が辞める、辞めないということを軽々に言うつもりはありません。ただ、日本代表がベスト16に入れる可能性を、1%でも上げるための決断を下すことが私の責任だと思っています。グループリーグを突破できなかった時の責任については、常に考えなければいけない。ただ、誰かが辞めれば済む問題なのかどうかも含めて考えていきたい」

 歴代のトップが下した事例と、あらためて照らし合わせてみる。長沼会長が切った啖呵に込められた不退転の覚悟は、メディアを介してファンやサポーターにも伝わった。岡野会長が理路整然と示した日本代表の現状と未来は、そのまま自国開催のワールドカップへの期待へと変わった。覚悟と期待のどちらも、田嶋会長の言葉からは残念ながら伝わってこない。

 渡仏前に法務関係者とハリルホジッチ氏との契約書を精査し、解任通告における細部を詰めた田嶋会長の一連の過程に瑕疵はないだろう。それでも、解任理由と自身の責任の所在に曖昧な部分を大いに残したことが、後味の悪さと不可解さを今もなお残す事態を招いている。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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