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「怪物」と呼ばれた平山相太、早すぎる引退に至った苦悩と挫折

2018年03月17日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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写真:YUTAKA/アフロスポーツ

長崎県の強豪・国見高校時代から「怪物」と呼ばれ、日本人離れしたサイズを武器とするストライカーとして将来を嘱望された平山相太さん(32)が、4月から仙台大学体育学科の1年生として第二の人生を歩み出す。ベガルタ仙台と今シーズンの契約を更新しながら、左足首のケガが癒えなかったこともあって、今年1月26日に現役引退を電撃的に発表。今現在は長崎総合科学大学附属高校を率いる高校時代の恩師、小嶺忠敏氏(72)の大きな背中を追い、指導者への道を歩むと決意するまでに抱いてきた苦悩や葛藤、オランダやFC東京時代を含めて直面してきた挫折を、新たなエネルギーに変えてきた軌跡をあらためて振り返った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

“敵地”で引退セレモニー開催

 190cm、85kgのサイズを誇る平山相太さんの体がひときわ大きく見えた。FC東京とベガルタ仙台の選手たちがすべて引き揚げた、味の素スタジアム内の取材エリア。その一角に急きょセッティングされた、高さ30cmほどのお立ち台に上ったのだから無理はない。

 周囲を幾重にも取り囲んだメディアを見下ろす自らの体勢に、心なしか恐縮していたのか。スーツにネクタイ姿の平山さんはちょっぴり前屈みになりながら、誰からも愛された人懐こい笑顔を浮かべた。

「最後の囲み(取材)ですね。本当にありがたいです」

 今月3日に行われた、明治安田生命J1リーグ第2節後の微笑ましい光景だった。最後の所属チームとなった仙台から1月下旬に現役引退が発表され、2月下旬には仙台市内で記者会見も済ませていた平山さんが、引退セレモニーを終えた後にメディアへ対応した。

 敵地で引退セレモニーが開催されたケースは、5月で25周年を迎えるJリーグの歴史でもまず見当たらない。それでも、2016シーズンまで10年半も在籍したFC東京のホームで、平山さんをして「自分の家だと思っていた」と言わしめた、味の素スタジアムが舞台となればうなずける。

「自分は引退してサッカーをやめたので、味スタを含めて、Jクラブのスタジアムのピッチに立つことはもうないと思っていたので。この話をいただいた時はちょっと恐縮したというか、恥ずかしさもありました。セレモニーでは泣くかな、と思いましたけど、まったくでしたね。緊張しすぎてしまって、ちゃんと話さなきゃと思ってばかりいたので」

 32歳でスパイクを脱いだ決断に誰もが驚かされた。それだけ寝耳に水の一報だった。昨年末には仙台との契約を更新し、クラブの公式ウェブサイトでこんな抱負を綴っていたからなおさらだ。

「悔しさを原動力に、ゴールを決めてチームの勝利に貢献したい」

 サッカーが大好きと公言してはばからなかった、平山さんに何が起こったのか。

 答えの一端は引退が電撃的に発表された1月26日に、再び公式ウェブサイト上に掲載された平山さんの言葉にある。

「度重なるケガのため、現役から退き、引退することを決断いたしました。開幕前の大事な時期にクラブに迷惑を掛けてしまうことを申し訳なく思っています。また、決断を尊重してくれたことに感謝しています」(原文のまま)

 仙台での公式戦出場は「0」だった。正確には幻と終わっていた。ホームのユアテックスタジアム仙台に北海道コンサドーレ札幌を迎えた、昨年2月25日のシーズン開幕戦。両チームともに無得点のまま迎えた試合終了間際に、平山さんは3人目の交代選手としてスタンバイしていた。

 しかし、直後にFW石原直樹のゴールで仙台が先制する。当然ながら渡邉晋監督の采配も値千金の1発を守り切るそれに変わり、攻撃の切り札的な存在だった平山さんの投入は取り消された。

 一夜明けた2月26日、札幌戦に出場しなかった選手たちは、JFLのソニー仙台との練習試合に臨んでいた。平山さんもFWとして先発していたが、左足首に違和感を訴えて、前半途中でベンチへ下がっている。

 なかなか痛みが引かなかったこともあって、数日後に精密検査を受けた。左くるぶし付近の腱が脱臼していることが判明し、3月11日に緊急手術を受けた。全治までは12週間と診断されたが、長いリハビリを経てチームの練習に合流しても、なかなかコンディションが上向かない。

 試合に出られないままシーズンを終えた昨年12月には、普通に歩くだけでも痛い状態へ悪化した。それでも契約を延長したうえで、年末年始を完全オフにあてて回復を待ったが、思い描く理想とはほど遠いことは誰よりも平山さん自身がわかっていた。

 おそらくこの時に、心が折れてしまったのだろう。引退にあたってのコメントを「度重なるケガのため」と綴り始めた心中は察するにあまりあるが、事前に引退を報告した渡邉監督からは「必ず復活させるから」と受話器越しに慰留された。

 心が震えるほどありがたかったが、求められるパフォーマンスを演じる自分自身の姿は、とてもじゃないが想像できなかった。断腸の思いを込めて断りを入れ、指揮官に了承してもらった。

「悪夢」の連鎖

 電話を切った直後。労をねぎらってきた夫人が流した涙にもらい泣きした。事情をよく理解していない、2人の幼い子どもたちの笑顔に救われたと、平山さんは引退会見の席で明かしている。

「試合に出られなかった時も、家に帰って子どもの寝顔を見ると、落ち込んでなんかいられないと思いますよね。長男はサッカー選手にするというか、サッカー選手になりたいと言うように、サッカーだけを教えて育てます。だから記録だけでなく、子どもたちの記憶に残るように頑張りたいですね」

 笑顔を浮かべながらこう話してくれたのは、ワールドカップ・ブラジル大会でJ1が中断していた2014年の夏だった。長男は当時2歳になる直前。その後の平山さんのサッカー人生の軌跡をたどれば、記憶に残る、という願いはおそらくかなえられなかったはずだ。

 それでも引退を決意するに至ったのは、手術を要するほどの大ケガが左くるぶしだけにとどまらなかったからだ。悪夢の連鎖の記憶をたどっていくと、東日本大震災の発生ですべての公式戦が中断していた2011年4月10日に行き着く。

 当時J2を戦っていたFC東京は、栃木SCとの練習試合に臨んでいた。そして、味方のスルーパスに反応し、相手ゴール前に抜け出した平山さんは、飛び出してきたゴールキーパーと激突。これまで経験したことのない痛みを右足のすねに覚えた。

 悪い予感は的中する。右脛骨及び腓骨の骨折。全治まで最長で6ヵ月はかかる重症であると告げられた。結局、2011シーズンは震災が発生する6日前の3月5日に行われた、サガン鳥栖との開幕戦に先発フル出場しただけで終わった。

「半年後にはサッカーをやっているかな、という感じだったんですけれども。腓骨と比べて脛骨がくっつくのが遅かった。ホントに綺麗に折れていたので。結局、練習復帰が年末でしたからね」

 1年でJ1復帰を果たした2012シーズン。短い時間ながらも途中出場でリーグ戦のピッチに3度立ち、復活への青写真を描き始めた矢先の5月1日に、練習中の接触で再び右足のすねを痛める。腓骨の骨挫傷と短腓骨筋挫傷。復帰を果たしたのは、12月1日のJ1最終節の後半36分だった。

 当時の平山さんは20歳代の半ば。選手として飛躍を遂げる時期に2年間で5試合、合計で109分間しかピッチに立てなかった。2009シーズンはヤマザキナビスコカップ制覇の原動力となり、翌年1月には若手中心の編成となった日本代表に初招集。デビュー戦でハットトリックを達成するなど、右肩上がりの軌跡を描き始めていたサッカー人生は急停止を余儀なくされる。

 それでも努めて前を向こうと、平山さんはこう振り返ってくれたことがあった。

「最初の骨折であまりにも長くかかりすぎて、焦りを通り越して笑っちゃうくらいだったので。2度目はそれほどショックではなかったですね。外からサッカーを見るようになってからは、サッカー人生で積み重ねてきた結果として今現在の自分があるので、すべてをしっかりと受け入れられる人間になろうと思っていました」

 完全復活へ向けて、環境を変えることも可能だった。2012シーズンのオフに、複数のJ2クラブから期限付き移籍のオファーが届いた。正式なオファーには至らなかったものの、2013年の夏にもJ1クラブから期限付き移籍を打診されている。

「ほとんど試合に出ていなかったので、かなり迷ったのは事実です。試合勘も鈍るし、点を取る感覚も忘れかけていた。試合へ向けた準備や緊張感を持続させることはもちろん、90分間をフルに戦える体力もない。練習だけではコンディションが上がり切らないし、体も何となく締まっていなかった。

 やっぱり試合に出なきゃダメだと思いましたが、いざFC東京を離れると考えた時に、他のチームでプレーする自分を想像することができなかった。FC東京が一番好きなクラブだと再認識したので、ほんのわずかでもプレーできるチャンスがあるのならば、FC東京で頑張ろうと決めたんです」

 結果が問われるプロの世界である以上、いつかは別れる時が、つまり契約を更新しないと告げられる時が訪れるかもしれない。それでも平山さんに迷いはなかった。不器用にも映る愛情の貫き方もまた、老若男女を問わず幅広い人気を平山さんが博した理由だ。

「なるようになるさ、という感じですね。そのような運命になれば、仕方のないことだと思うようにしました。だからこそ、出番が訪れた時には絶対に点を取る。それだけを考えていました」

 2014年9月に右足首の内側を骨折した影響で、2015シーズンの公式戦出場は2試合にとどまった。状態が完璧ではなく、途中出場がほとんどを占めた中で、それでも2016シーズンは5ゴールをあげて奮闘した。しかし、オフに「いつかは訪れる」と覚悟していた、FC東京との別れが訪れる。

 そして、捲土重来を期した新天地・仙台でもケガの連鎖が続いた。愚直なまでにケガと真正面から向き合ってきた平山さんだったが、もはや自分自身を奮い立たせることはできなかった。

ヘラクレス・アルメロでの挫折

 長崎県の強豪・国見高校で、2001年度から3大会続けて全国高校サッカー選手権に出場。歴代最多の通算17ゴールをマークし、2年次、3年次と連続得点王を獲得した平山さんは「怪物」の異名とともに、日本サッカー界の未来を担う逸材として嘱望された。

 Jクラブではなく筑波大学に進んだが、2年生だった2005年夏に突然休学。オランダ1部リーグのヘラクレス・アルメロでプロとなり、ルーキーイヤーは最終的にチーム最多の8ゴールをマーク。2006年春には筑波大学を自主退学し、プロ一本で生きていく覚悟を固めた。

 しかし、2年目のシーズンが開幕した直後の2006年夏に、ヘラクレス・アルメロを電撃退団。帰国してFC東京入りした理由をホームシックと説明したことで、心ないバッシングを浴びた。しかし、平山さんは後に、ホームシックとしたのは嘘だったと打ち明けている。

「プロ選手としての考え方を見つめ直さなきゃいけない、と思ってFC東京を選びました。オランダの1年目はJリーグでのプレー経験があるピーター・ボス監督が自分を理解してくれて、試合でも使ってくれた。でも、2年目になって監督が代わってからは話もしなくなり、その監督は新しいFWを連れて来てしまった。急に環境が変わり、試合に出られなくなった時に自分の弱さが出てしまった。それをごまかすための言葉がホームシックでした」

 8歳でサッカーを始めて以来、体格に恵まれていたこともあって、平山さんは常に試合で起用されてきた。ゆえに実質的な構想外となったヘラクレス・アルメロでの2年目で、特にメンタル面のコンディションを大きく崩してしまった。

 弱い自分を見られることを拒んだ、プライドとも言える感情はスパイクを脱いだ今現在は持ち合わせていない。引退セレモニーでは現役時代のメモリアル映像も、オーロラビジョンに流された。すごい選手だと思いましたか、とメディアから問われた平山さんは、苦笑いしながら首を横に振った。

「自分が何をやってきたか、何を残せたか、あまり実感はなかったんですけど、(セレモニー後にスタジアムを)周った時に『ありがとう』という言葉をたくさんもらって。サッカーを続けてきてよかった、と思いました」

 今も思い出すたびに気持ちが重たくなるほど、毎日のように厳しい指導を受けた国見高校時代の小嶺忠敏監督(現長崎総合科学大学附属高校監督)を、サッカーだけでなく人生の師として仰いできた。

 第二の人生に思いを馳せた時に、小嶺監督の大きな背中を追いかけたい、サッカーの指導者になりたいと自然に思うようになった。そして、2017シーズンをすごした仙台とのつながりで仙台大学を紹介され、AO入試を一般で受験し、合格通知を受け取った。

 教員免許を取得するだけでなく、コーチング理論やスポーツ心理学を大学生として受講。同時進行でJクラブの監督を務めるのに必要な、日本サッカー協会が発行するライセンスも取得していく。

「仙台で見かけた時には、声をかけてください」

 セレモニーではマイクを介してこんな言葉を投げかけて、仙台のファンやサポーターの笑いを誘った平山さんが後ろを振り返ることはない。残念ながら天命は訪れなかったが、人事を尽くしたと胸を張って言えるからこそ、前だけを見つめて歩んでいく。

 華やかなスポットライトを浴びただけではない。プロ野球などに比べれば決して長いとは言えないサッカー選手の競技人生で、思うように道を切り開けない、どん底の時期も長く経験してきた濃密な軌跡は、指導者の道を歩んでいく上で人間的な厚みをもたらしてくれるはずだ。

「自分は話すのが下手なので、サッカーに関する勉強だけでなく、教える、あるいは伝える力もつけていかないと。高校時代の3年間はサッカーだけではなく、人としての在り方も教わったことで、少しずつですけどプロの世界で成長できたと思っているので、そういうことも教えられるようになりたい」

 J1での通算成績は168試合に出場して33得点。オランダ時代を含めて、二桁ゴールに到達したシーズンは一度もなかったが、それでも何かを期待させるオーラを常に漂わせる稀有な存在だった。

 だからなのか。FC東京のファンやサポーターに大声で熱唱されてきた平山さんのチャントは、今では「ヒラヤマ」の部分が「タケフサ」に変わり、14日のYBCルヴァンカップで待望のプロ初ゴールをあげた21世紀生まれで初めてのJリーガー、16歳の久保建英に受け継がれている。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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