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夢は福井をチアの街に!「チア☆ダン」のJETS顧問・五十嵐裕子教諭ロングインタビュー

2018年01月12日 11時30分更新

文● 写真●飯島範久

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11年務めた高校から異動届けを出し福井商業へ赴任

五十嵐裕子JETS顧問教諭。2004年に福井県立福井商業高等学校へ赴任し、2006年にチアリーダー部JETSを結成。2009年に全米チアダンス選手権大会でJETSを優勝に導いた

五十嵐 私がこのままこの高校にいても、この学校にとっても生徒たちにとっても何ひとついいことはないと思って、異動しようと腹をくくって届けを出したんです。次こそ何か、私じゃないとできないことはないかと、考えていたところ、テレビでチアダンスを目にしたんです。それが厚木高校ダンスドリル部のIMPISH。全米で優勝したというのをテレビで見て、衝撃を受けました。
 と同時に「次はこれをやる」と決めたんですね。チアダンスの経験もないし予備知識もないのに。ただひとつ思ったのは、高校生がこれだけ輝けるものは何だと。次に出会う生徒たちも、こんなに輝く生徒たちに育ててみたいと思いました。競技とかは二の次、三の次で、輝く生徒を育てたいというふうに思ったのが大きいですね。
 なぜ、チアダンスにそんなに魅力を感じたのかというと、どの子でもできそうだということがひとつと、いろんなジャンルのダンスが入っていること。ジャズとヒップホップ、ポン、ラインダンスの4つが1つの作品の中に入っていることが、見ていてもワクワクします。エンターテインメント性の強い競技だということに引かれたんですね。

 福井商業は、野球の強豪校で数多く甲子園に出場。その応援をするためにバトン部が存在していたが、五十嵐先生はそれに目をつけていた。

五十嵐 実は、別の部活の副顧問として配属される予定だったんです。でも、それを断り、バトン部をやらせてほしいとお願いしました。目論見がありますから(笑)。福井商業へ配属になった時点で「ヨシっ」と思っていました。なので、バトン部をやらせてほしいといって赴任したわけではなく、たまたまだったんです。

 ここから、バトン部よりチアダンス部への変革がスタート。最初の2年は、当時テレビ番組の主催する「ゴリエ杯」などに出場するなどして地固めしつつ、3年目で初代JETSが誕生する。

五十嵐 3年で結果を出すチーム名としてふさわしいものはないのかって考えたときに、「ジェット噴射」するような意味で急激にうまくなり、チームワークよく、勢いよく成長するという意味で「JETS」と名付けました。とにかく、米国へ行くためには、規律のあるチームづくりをしないと練習が整わないですからね。一流の先生にご指導いただこうと思っていましたから、部活をサボったり、私との約束を守れない生徒なんて問題外です。とにかくそういうチームとしての体制を整えるということを徹底してやりましたね。

考え方を変えてプロデュースに専心

 そしてここから、五十嵐先生はプロデューサー力を発揮し、厚木高校の伊藤早苗先生や前田千代コーチに出会いつつ積極的に声をかけて来てもらうことになる。

五十嵐 運なんですね。インストラクター養成コースというのがあったので、東京まで行って習ったんですが、これは素人には無理だなということがわかりました。ただ、やっていて楽しいということもわかったし、こんなに楽しいことは絶対生徒にやらせたいと思ったわけです。そこでプロデューサー的な考えに切り替えて、誰に教えてもらい、どんなチームづくりをすれば米国へ行けるのかということを考えて、計画を立てていったんです。
 もし20代のころだったら、エネルギーと気力だけはありましたから全部自分でやって失敗していたと思います。私の全米までの夢ノートというのがあって、やらなければならないこと、やりたいこと全部書き出して、自分でプランニングしました。生徒は大変だったと思いますよ。この人、次に何を言い出すんだろうって。結構ドキドキしていたと思います。無茶振りばかりですからね。

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