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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第434回

業界に痕跡を残して消えたメーカー ミニコン開発に奮闘したData General

2017年11月20日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

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 前回ほんの少しだけ触れたData Generalを今回は紹介する。あるいは日本では「超マシン誕生」(トレイシー・キダー著・糸川洋訳・日経BP刊)でご存知の方が多いかもしれない。

 この翻訳の元になった“The Soul of a New Machine”は1982年にノンフィクション部門でピューリッツァー賞を受賞している。この本のテーマは、そのData GeneralがEclipse MV/8000を開発する過程を追ったレポートである。

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DECを辞め8bitベースの
マシンを作る会社を興す

 Data Generalの創業者であるEdson de Castro氏は、もともとはDECのエンジニアだった。彼は1960年に大学卒業後、DECに入社する。DECでまずはPDP-1のシステムエンジニアからスタート、その後PDP-4とPDP-5を経て、PDP-8の開発と、その改良型であるPDP-8/iの開発に携わることになった。

 PDP-8/iは1967年に開発が完了するものの、連載366回の表にもあるようにPDP-1/4/5/8は基本的に1quanta(*)=6bitのものだった。ところが1964年にIBMはSystem/360を発表し、こちらは1quanta=8bitをベースにしたものだった。

(*) これはEdson de Castro氏のインタビュー中の表現である。6bitの倍数で構成するか、8bitの倍数で表現するかという基本単位をCastro氏はQuantaと呼んでいる。

 Castro氏は上層部に、自社も8bitをベースにしたマシンを作るべきだと何度も進言したらしいが、これはことごとく却下されたらしい。実際DECが8bitをベースにしたマシンを投入するのは、1970年のPDP-11である。

 Castro氏はそんなわけで、DECが8bitベースのマシンを作らないなら、自分で会社を興してここで作ってやる、と1967年に決意。同じ想いを抱いていた同僚らと共にDECを辞し、1968年にマサチューセッツ州ボストンでData Generalを創業する。

 ちなみにこの時に一緒にDECを辞め、Data Generalの創業者の1人となったのが、連載328回に出てきたHenry Burkhardt III氏というあたり、いかにこの業界同じ人間がぐるぐるまわっているか、わかろうというものだ。

 そんな経緯で会社を立ち上げたCastro氏だが、他に営業としてFairchild SemiconductorからHerb Richman氏を招き、さらに弁護士だったFrederick Richard Adler氏を迎え入れる。Adler氏は自身で5万ドルを用立てたほか、さまざまなところから総額80万ドルの開業資金を調達、これで会社はスタートできることになった。

 これもあってCastro氏が社長兼CEO、Richman氏がマーケティングと営業担当副社長、Adler氏がCFOを勤めることになった。

 さて、そのData Generalが最初に開発したのが16bitミニコンのNOVA 1200(Photo01)である。Castro氏の回顧録によれば、内部構成は4bit単位で、これを高速で動かす形で実装したらしい。

NOVA 1200。フロントパネルに16個のスイッチが並ぶあたりが当時のマシンらしい感じである

 回路はディスクリート部品で構成されたが、当時はまだ使われていたWire-Wrapping(回路のあちこちに立てられた金属棒に配線を巻きつける方式)に代わってPCB(Printed Circuit Board:いわゆるプリント基板)を利用することでコストを削減し、信頼性を向上するといった工夫もあった。

 当時のことなのでメモリーはコアメモリーであるが、アクセス速度は780KB/秒程度もあり、主要な命令はサイクル時間が1.55μ秒で実行可能だったため、かなり高速な部類に属した(写真の説明を見ると380Kbps程度とされてるあたり、前後になにか他のウェイトが入ったのかもしれない)。また筐体の大きさをPDP-8と共通にしており、PDP-8用のラックに簡単に収められた。

 NOVA 1200の単体価格は3995ドルで、コアメモリーを4KBまで増やすと7995ドルほどになった。とはいえ、この価格は当時の競合製品(PDP-8や、翌年登場するPDP-11)と比べてずっと安く、しかも高速だった。

 リムーバブルHDDやその他の周辺機器まで含めた平均納入価格は2万6000ドルほどになったが、1969年5月に開催されたSpring Joint Computer Conferenceで発表されるや否や注文が殺到する。

 当時Data Generalの本社はボストン市のハドソン地区の元美容院だった部屋に置かれていたが、さすがにこれでは製造に差しさわりがあると思ってか、ちょうどSpring Joint Computer Conferenceの直前にボストンから西に20マイルほど離れたSouthboroughに拠点を移したばかりだった。

 その新拠点には注文が殺到、初年度だけで200を超えるNOVA 1200を出荷する。その後NOVAシリーズはメモリー搭載量を32KWords(64KB)まで増やすとともに拡張性を高めたNOVA 2、内部構成を見直して高速化(サイクル時間が300nsまで短縮された)したSuperNOVAや、このSuperNOVAのコアメモリーをMOS DRAMに切り替えてさらに高速化したNOVA 3など次々にラインナップを拡充、シリーズ累計で5万台以上を出荷している。

 NOVAシリーズの場合、単体で使われるというよりもOEM先が大型の機器に組み込んで使われるというケースが多く(これはDECのPDP-8/11も同じだった)、こうしたOEM向けには最大40%ものディスカウントを用意したこともあり、1970年台に入ると同社の売上の7割がOEM向けということになった。OEM向けビジネスの場合、価格は厳しいが数量がまとまって出るため、財務的には安定する。

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