業界に痕跡を残して消えたメーカー Power MacintoshのOSになれなかった悲劇のBe

文●大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

2017年09月04日 12時00分

今回の業界に痕跡を残して消えたメーカーは前回のPalmつながりで、Be Inc.を紹介したい。話は、Apple Computer社から始まる。

1990年、Jean-Louis Gassee氏がApple Computerを退社する。もともとGassee氏は1981年からApple Computer Franceの社長の座にあった。ただ1985年にSteve Jobs氏がApple Computerを退社した後、1985年に研究開発担当副社長、1988年に製品・開発・製造担当副社長とどんどん昇進していく。この抜擢はJohn Sculley氏によるものだ。

そもそもSteve Jobs氏退社のきっかけとなった、同社の1985年5月24日の取締役会で、John Sculley氏に対して「Sculley氏の中国出張中に、JobsがSculleyを追放しようと画策している」と密告したのがGassee氏だったそうで、それもあってJobs追放のキーマンという評価もなされているGassee氏だが、このあたりは本題ではない。

Jobs氏が退社後は、Gassee氏はJobs氏に代わり、Macintosh IIやMacintosh Portableなどの開発に携わっていく。ただし、社内で急速に昇進してゆくGassee氏は、今度はSculley氏にとって目障りになったのかもしれない。

Sculley氏が進めていたMacintoshの外部企業へのライセンス、あるいはNewton Message Padの開発などに関しても、Gassee氏は批判的な立場であり、このあたりが表向きには両者が反目しあったきっかけだと評される。結局1990年3月にGassee氏は開発担当副社長の職を解かれ、これを理由にGassee氏は退職を決断する。

マルチタスク、オブジェクト指向の
最新OSを作るべく立ち上げた会社

ということでやっと本題。Apple Computerを退社したGassee氏は、一緒にApple Computerを退職したSteve Sakoman氏とともに、さっそくBe Inc.を設立する。Be Inc.の目的は、最新のOSを提供することであった。

BeOSとして世の中に登場するこの最新OSはC++で記述され、マルチタスク/マルチスレッド、対称型マルチプロセッサー、オブジェクト指向、リアルタイムメディアなどを特徴としている。

今ではほとんどのOSがごく当たり前のようにこれを実現しているが、1990年当時といえばまだWindowsは3.0が出たばかりで、Windows NTは開発が始まった直後といったところ。Apple ComputerはまだSystem Software 6(System 7が出るのは翌年の1991年)という時期である。

高度なマルチスレッド化、マルチタスク化によって圧倒的なパフォーマンスを誇っていた「BeOS」

余談であるが、この当時筆者の環境は原稿執筆がEPSON PC-386M上のMS-DOS、BBSの巡回その他はMacintosh SE/30+Vimage SE/30で漢字Talk 6.0.7かなにかを使っていた。PC互換機はベンチマークなどのテスト用になっていた。要するにまだ本格的な仕事をするには、どの環境も不十分といった時期である。もっともこれは後から見れば、という話であってこの当時はこれでそれなりに満足していたのだが。

こうした複数の処理が一本化されるのは、Windows for Workgroups 3.11にWin/Vを組み合わせた環境がPC互換機上で構築できるようになった1993年あたりからである。Win/Vの製品としての発売は1994年だが、その前に入手できていた気がする。なお、Windows 3.1は一応使いはしたが、安定した環境からはほど遠く、制約も多すぎた。

これに先立ってSE/30は売り払い、PC-386Mもこの後には無くなったはずだ(売ったのか捨てたのかも覚えていない)。

それでも1994年にはマルチメディア(QVGAクラスの動画や、XGAサイズの静止画)は扱えていたし、確か図版の作成もこの頃にはWindowsに移行していた。それ以前は図版はおもにMacDrawで作成していた。これがSE/30を使っていた理由の1つだった。

話を戻すと、1990年というのはそういう時代である。その時期にBeOSが目指したものは、ずっと新しいものだった。

もっとも、先に少し出たWindows NTの開発に携わったDavid Cutler氏がDECからマイクロソフトに移籍したのが1988年10月のことであり、最初のリリースであるWindows NT 3.1が1993年に登場したことを考えると、スタートに関してもWindows NTの方が少し早かったことになるのだが、少なくとも1990年の段階ではまだこれは明らかではなかった。

製品発売前に対応プロセッサーが生産中止

さて、OSを作るにあたっては当然ながら想定されるハードウェアがなにかないといけないのだが、当時のマシンの中でGassee氏のお眼鏡にかなう物はなかったらしい。そこで当初、同社はAT&TのHobbitというプロセッサーを使って最初の開発ボードを構築する。

AT&TのHobbitはCRISP(C-language Reduced Instruction Set Processor)というアーキテクチャーに基づくものである。このCRISP、もともとはAT&T傘下のベル研究所で1980年代に研究されていた、“C Machine”(C言語で記述されたプログラムを高速に実行するプロセッサー)のプロジェクトの産物である。

CRISPチップのうち、C言語の解釈部分を手がけたのはDavid Ditzel氏、この後SPARCやAm29000の設計を手がけTransmetaを立ち上げる、あのDitzel氏である。HobbitはこのCRISPチップの商用版という位置づけになる。

パイプライン構造は3段で、命令は1/2.5/3バイトの可変長(このあたりはRISCっぽくない)、ほとんどの命令は1サイクルで実行可能、かつ分岐予測をディレイなしで実行可能で、投機実行すら可能になっていた。

命令プリフェッチバッファー(事実上のL1 I-Cache)は当初の92010が3KB、後継の92020が6KBであり、20MHz駆動の92010は12 DMIPS(Dhrystone MIPS)(13 DMIPSという数字もある)を叩き出している。製造は0.9μmプロセスのCMOSで、性能/消費電力比はかなり高かったが、絶対性能はそうでもなかった。

AT&TはこのHobbitをARMのプロセッサー(Newtonに採用されたARM 610を競合と位置づけていた)に代わり、PDA市場でシェアを取れることを期待し、自社でもGo ComputingのPenPointを搭載したEO-440 Personal Computing Systemを開発して、1992年のCOMDEXでお披露目した。

EO-440 Personal Computing System。PenPointを搭載、手書き入力を可能にした。ちなみにこの際の発表会では、マシンの製造はパナソニックで、Hobbitチップのセカンドソース製造はNECが行ない、東芝はHobbitベースのPDA製品を開発予定と発表されていた

AT&TのロゴがあるのがHobbitチップとそのチップセット。CPU(ATT92010)、システム管理(ATT92011)、PCMCIAコントローラー(ATT92012)、デバイスコントローラー(ATT92013)、ビデオディスプレイコントローラー(ATT92014)がまずラインナップされ、後に高性能版のATT92020プロセッサーも追加された

ちなみにこのCOMDEXにおける発表の17時間前に、日本でもEO-440の発表会が開催された「らしい」が、これを裏付ける発表会レポートはすでにどこにも残っていない。

話は錯綜するのだが、もともとこのEO-440を開発したEO Personal Communicatorという会社はGo Computingからの独立組で構成されていた。1992年にAT&Tに買収されて、EO-440はAT&Tからの発売になるのだが、実はEO-440の発売以前にAT&Tの半導体部門はHobbitの生産中止を決めていたらしい。

要するにNewton向けプロセッサーの座をARM 610に奪われたため、市場性に欠けると判断したらしいのだが、その話はEO-440の部隊にまったく伝わっていなかったらしい。

ついでに言えば、AT&TはこのEO-440を家庭向けに開発・発売したわけだが、それとは別にAT&Tは業務向けにGeneral Magicと組み、Telescriptと呼ばれる手書き入力サービスをベースにしたシステムを構築し、これをプロバイダーに提供するビジネスも並行で動いていた。

要するにAT&Tと一口で言っても隣の部隊がなにをやってるかさっぱりわからない状態だったらしい。そんなわけでEO-440も発売はしたものの、肝心のCPUが生産中止とあれば売れるわけもなく、結局ひっそりと消えていった。

ようやくハードウェアが完成
BeOSが実装される

だいぶ脇道に逸れたので話を戻そう。1990年といえばまだこのHobbitチップの売り先をAT&Tが模索していた状態であり、Beにとっては都合が良かったのかもしれない。最初のBeOSはHobbitをベースに実装されることになる。

ただ12(13) DMIPSはPDAには十分でもPCには明らかに非力である。なにせインテルは1989年に80486DX/50MHzをリリースしており、明らかに見劣りした。66MHzのものが54 DMIPSなので50MHzでは41 DMIPSほどになるからだ。

そこでBeは途中でターゲットをHobbitからPowerPCに移行させ、1995年にBeBoxとして発表する。Hobbitベースの開発ボードの構成はHobbit×2とAT&D 9308S DSP×3というものだったが、これが66MHz/133MHzのPower PC603×2に切り替わった。

BeBox。一見するとミドルタワーのAT互換機なのだが、下側に2つのLEDアレイが用意され、これがCPUの負荷を表示するという、なかなか小粋な演出になっていた。写真では消えているが、この黄色のCPUアレイの下には、HDDアクセスを示すLEDも搭載されていた

メモリーはSIMMスロット×8で最大256MB、PCIスロット×3、ISAスロット×5、オンボードでSCSIとIDEポートを持つほか、シリアル×4、PS/2マウス、ジョイスティック×2、MIDI In/Out各2、IRポート×3、オーディオ入出力×2、さらにGeekPortと呼ばれる独自の拡張ポートも搭載されるという、なかなかに重厚な構成である。

1995年10月に発表されたのはPowerPC 603 66MHz×2の構成で、価格は1600ドル(基本構成)。翌1996年8月にはプロセッサーをPowerPC 603 133MHz×2に強化したものが、2995ドルで発売された。

Power Macintoshへの移植を急ぐ

Beにとっての売り物はBeOSそのものである。BeBoxの完成後、同社はBeOSのPower Macintosh向けの移植を急ぎ、1996年にこれも完成する。これが容易になった理由の1つは、PReP(PowerPC Reference Platform)とCHRP(Common Hardware Reference Platform)の存在である。

PRePはPowerPCの開発元だったIBMが策定した、PowerPCをベースとしたコンピューターシステムを構築するためのリファレンスであり、CHRPはIBMとApple Computerが策定した、PowerPCベースの標準的なコンピューターシステムのリファレンスである。Apple ComputerのPower Macintoshは当然これに準拠する形で構築されていたので、移植は比較的容易だったらしい。

なぜBeOSは途中からターゲットをPower Macintoshに変えたのかというと、これはApple Computerの事情が絡む。Apple ComputerはCoplandという名前で開発していた次期OS(System 8という名前もあったが、これはMac OS 8とは別物)の開発に失敗した。

もともとApple Computerは1988年からPinkという名前で次世代OSの開発を開始しており、1991年にはIBMと包括契約を結んでTaligentという会社を設立、ここで社名と同じTaligentという名前のOSの開発を始めている。

実はPRePやCHRPといったリファレンスはこのTaligentを強く意識したものである。ただTaligentは会社もOSも開発が迷走し、結局IBMが1995年にTaligentを買収することで終わっている。

CoplandはこのTaligentと並行して1994年からApple Computer社内でスタートしたOS開発プロジェクトであるが、1996年の段階になってもまだマトモに動く状態になっていなかった。

その間にApple ComputerのCEOはNational Semiconductorから来たGilbert Frank Amelio氏になっており、Amelio氏はこのCoplandの状況を確認した上で開発中止を決定する。これ以上開発を続けても完成しない、と見て取ったのだろう。

結果、Apple Computerは急に新しいOSを、それも急いで必要とすることになった。Gassee氏がBeOSをPower Macintoshに移植したのは、こうした事情によるものである。実際Power Macintosh上で、BeOSはMacOS Classicよりも高速に動いたらしい。そんなこともあって、1996年夏ごろは、BeOSがMacintoshの次期OSになるという下馬評が盛んであった。

これが一転、NeXT ComputerのOPENSTEPに切り替わるのは、価格交渉がまとまらなかったためだ。Gassee氏はBe Inc.まるごとの買収に2億7500万ドルという価格をつけ、Apple Computerは1億2500万ドルを上限とした。その後Apple Computerは2億ドルまで価格を引き上げるものの、交渉は決裂。

そうこうしている間にJobs氏がOPENSTEPを携えてApple Computerにやってきて、次期OSはこれをターゲットとすることに決まった。ちなみに当時Be Inc.の資産一式は8000万ドル程度という評価だったそうで、随分Gassee氏も吹っかけたものだ。

OPENSTEPは開発コード名、RhapsodyとしてMacへの移植が開始される(初期はサーバー用OS向け)。これが現在の「Mac OS」そして「iOS」の前身/原型となっていく

ターゲットをx86に切り替えるも
競合製品乱立でシェア獲得には至らず

Power Macintosh向けの市場が急速に消えてしまったBe Inc.は、ターゲットをx86に切り替える。1998年3月にリリースされたBeOS R3はx86とPowerPCの両対応となり、同年12月にはR4もリリースされる。このR4には日本語版のR4Jもあり、Gassee氏自ら日本まで記者説明会に駆けつけた

日本の記者説明会に登壇するGassee氏

BeOSはOS自体がUnicode対応で、従来バージョンでもマルチリンガルに対応していた。R4Jでは、日本語入力IMEと2種の日本語フォントが追加された。ファイルシステムも完全に日本語に対応するため、ファイル名やフォルダー名に日本語を使用することもできる

翌年にはBeOS R4.5もリリースされるが、がんばったにもかかわらず、同社が存続するのに十分なシェアを獲得するには至らなかった。

もともとBeOSが特定用途向けといった性格の生い立ちであり、ところがApple Computerへのオファーの関係で一般向けOSに舵を切ったものの、肝心のアプリケーションのエコシステムの構築まで手が出せないでいた。

そもうえ、1990年と異なりすでにWindows 2000やMac OS、さらにはLinuxなどBeOSと同等レベルの競合がたくさんひしめいている状況で、生き残りは難しい。

2000年に同社は方向転換、BeOS R5は無償版(Personal Edition)と有償版(Professional Edition)をリリースするとともに、BeIA(BeOS for Internet Appliance)を提供して組み込み機器向け市場での生き残りを図るものの、これも遅きに失した感がある。

最終的に2001年、PalmがBe Inc.を1100万ドルで買収する。その後Palmが2つに分かれた際、Be Inc.の資産はPalmSourceのものとなり、現在はAccessがBeOSの権利を保有している。

ちなみにこのBeOSの利用権を2003年に当時のPalm Inc.から得て開発したのが独yellowTAB(現magnussoft)のZETAだが、売れ行きはやはり芳しくなく、2007年2月のZETA 1.5で開発と販売を終了。これとは別にOpen SourceベースでBeOS完全互換を目指しているのがHaiku(https://www.haiku-os.org/)で、現在も開発は続いている。

■関連記事