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kintoneな人 ― 第5回

地元の行きつけの店で聞いたkintoneと新しい個人事業者の形

kintone Caféの創始者ラジカルブリッジ斎藤氏が実践する「俺流」

2017年06月20日 07時00分更新

文● 大谷イビサ/TECH.ASCII.jp 写真●曽根田元

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kintoneのユーザーコミュニティであるkintone Caféを札幌で初めて立ち上げたラジカルブリッジの斎藤栄氏。お気に入りの大衆酒場「俺流」で、約20年におよぶビジネスプロフィールを振り返るとともに、個人事業者としての新しい働き方を語ってもらった。(インタビュアー TECH.ASCII.jp 大谷イビサ)

大手SIerを3年で辞め、札幌でサラリーマンを続けてきた

 斎藤さんのキャリアも大手SIerからスタートしており、上京して3年間はエンジニアとして銀行の勘定系システムの開発に携わっていた。しかし、業界の悪癖に浸る前に会社を辞め、札幌に戻った。地元に比べ、東京は通勤も気候も辛いし、生活の満足度も低かった。就職でいきなり東京に来たので、友人もいなかったという。

「泊まり勤務が必ずあるのもいやだったし、障害時は土曜にお酒呑んだあとでも会社に行かなければならない。トラブルがあると怒られるけど、動いていても褒められない。タクシー乗りながら、これずっとやっていくのイヤだなと思った」(斎藤氏)

ラジカルブリッジ 斎藤栄氏

 斎藤さんが札幌に戻り、受託開発やCD-ROM素材集を展開していた会社に就職したのが1996年になる。当時の札幌は、官民一体で立ち上げられた「サッポロバレー」というベンチャーブームで、Uターン転職でも仕事が少ないという印象はなかった。入った会社はクリエイティブなMac使いの人材が多かったため、勘定系システムをCOBOLで作っていた斎藤氏は異色な存在だった。

「おもに社内システムの開発を担当しており、素材集の画像を登録し、ネット上で売るためのWebアプリケーションで作っていました。フロントはJavaScriptですが、バックエンドはASP(Active Server Pages)とSQL Serverという時代でした」(斎藤氏)

 結局、その会社には約16年在籍したが、2011年の暮れも押し迫った頃、社長に辞表を提出して辞めた。いろいろな理由はあったにせよ、とにかく社長の考え方が理解できなかったという斎藤氏。転職してもまた社長がいるのは同じなので、一度経営者というものになってみようと起業を決意する。奥様の理解も得られ、ラジカルブリッジという屋号の元、裸一貫からITの仕事に向き合うことになった。これが今から5年前だ。

リストに並んだクラウドのうち、kintoneだけが謎だった

 ラジカルブリッジ起業当初は、前職のつてを元に補助金の付くようなプロジェクトを手がけていたが、「誰が使うかわからないようなシステム」「たいしたことないのにすごそうに見えるプロジェクト」を作るのは、やっぱり肌が合わなかった。

 こうして知人の「おいしいだけの仕事」を断るようになると、フリーになって1年も経たず、瀬戸際に立たされる。そんな中、高校の友人から問い合わせを受けた案件で、kintoneを「発見」したのは2013年の3月頃。いくつかリストアップした中で、ほかと違って、kintoneだけが謎だった。しかし、実際に試用してみたら、確かにいろんなことができて、気がつけばkintoneに夢中になり、30日間の無料試用を繰り返していたという。

「小学生の頃、BASIC学んでいた時の『楽しい』という感覚をまさに思い出したんですよ。ITをずっと仕事にしてたけど、けっこう辛い思いも多かった。でも、kintoneは純粋に楽しいというITを思い出させてくれた」(斎藤氏)

 独立した時にはクラウドと行く先を定めていた斎藤氏は、地元の「クラウドおじさん」としてkintoneを使った小規模事業者の支援にフォーカスする。

「大手SIerに行き、10人くらいのユーザーがいる情シスに移り、その後、独立して今があるんだけど、とにかくITはお金がかかることがわかっている。だから、小規模事業者にITの恩恵が届いていないのが課題。でも、時代が変わってクラウドが登場し、恩恵を届けることができるようになった。僕の場合は、それがGoogleやDropBoxのようにアカウントを販売することじゃなくて、kintoneでお客様に合った形のシステムを作ることだった」(斎藤氏)

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