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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第3回

進化を続けるテクノロジーの行く末を説いた天才

人間の意識は操っていい? 伊藤計劃「ハーモニー」に見る未来

2015年12月01日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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技術は「身体」には介入できるのになぜ「意識」はダメなのか?

  「ネットで進化する人間 ビフォア/アフターインターネット」が私たちにせまるもの、それはこれまでの「人間」という概念の再考である。いま、私たちはデジタル技術の加速的な進化によって人類史の転換点に立っている。伊藤計劃の「ハーモニー<harmony/>」もまさに、そうした人類の進化にまつわる物語である。

 伊藤氏が同作で徹底的に問題化しようとしたのは、人工知能のさらにその先にある、人間の「心」「魂」、つまり「意識」にほかならない。

 “人間にとって存在してもよい自然と見なされる領域は、人類の歴史が長引けば長引くほど減っていく。ならば、魂を、人間の意識を、いじってはならない不可侵の領域と見なす根拠はどこにあるのだろう。人類は既に「自然な」病の大半を征服してしまっているというのに。”

 これは「ハーモニー<harmony/>」の主人公である霧慧トァンがチェチェンで生きているという旧友・御冷ミァハに再会すべくコーカサスの山岳地帯を往く際の独白である。

 テクノロジーにとっての最後の聖域……、それは人間の“意識”だろう。医療や救命の名の下に科学技術が人間における自然=身体を制御すべく尽力してきたように、人間における自然=意識もテクノロジーによって制御できるのではないか……? 

 この“意識”に対する透徹した眼差しは処女作「虐殺器官」でもすでに重要な主題として提出されており、主人公のクラヴィス・シェパードと、瀕死の床にある彼の母の担当医との間にこんな会話が交わされる。

 母は苦しんでいるのですか、と僕が訊くと、苦痛を受けとる主体――「わたし」の存在が問題なのです、と医者は答え、さらに言葉を継いだ。いったい、どこからが「わたし」なんでしょうね、と。
 いったいどれだけの脳の部位、どれだけの人格や意識を構成するモジュールが残存していれば、「わたし」と呼ぶに充分なのでしょうか。

Image from Amazon.co.jp
伊藤計劃の長編デビュー作「虐殺器官」(ハヤカワ文庫JA)。「ハーモニー<harmony/>」で語られる「大災禍」が主要テーマとなっている。言語学者ジョン・ポールが訪れる後進国ではかならず紛争や擾乱が発生するという不可解な謎を解くべく、アメリカ情報軍のクラヴィス・シェパード大尉が彼を追うというストーリー

(次ページでは、「テクノロジーが触る人間のタブーは意識である」)

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