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情報の取り扱い説明書 2015年版 第15回

インターネットの影響力は大きいの? 小さいの?

ネットの民意がリアルに反映されないケースはなぜ起こる?

2015年10月20日 10時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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インターネットはパッケージを解体する

 この大きいと思えば小さく、小さいと思えば大きいインターネットの不可解さはいったいどこから来るのだろうか?

 少し前、誰かがソーシャルメディアを評して「敵に回すとこんなに厄介なものはないが、味方にしようとするとこんなに頼りにならないものはない」と言っていたのを目にしたが、まさにソーシャルメディアを含めたインターネットの本質を突いた表現と言えるだろう。

 われわれはインターネット上で散見するさまざまな人たちの意見や見解を「質的」にも判断するし「量的」にも認識しようとする。「なるほど、こんな考え方があるのか」という質的な受容と同時に、「この主張に賛同する人達はどれくらいいるのか? 反対する人達はどれくらいいるのか?」という量的な推測もかならず行なっているはずだ。そして、たいてい量的な憶測のアテは外れる。少ないと思っていたら実は多く、多いと思っていたら実は少なかった……ということになる。

 こうしたとき、思い至るのは、インターネットに限らずデジタル技術はあらゆる情報をパッケージ化するのではなくモジュール化するという特質である。

 ネット空間においてはひとつの大きな物語はユーザーによって解体され、ユーザーが独自に生み出す小さな無数の物語となって流通する。

 だから日常の一瞬を切り取った「写真」はインターネットと相性が良いし、映画のような長大な映像とは異なる、尺の短い「動画」というカルチャーが生まれた。音楽がアルバムというパッケージから曲ごとの販売へと移行したのも同様の理由による。

動画投稿サイトでことあるごとにアップされるブルーノ・ガンツ主演の映画「ヒトラー ~最期の12日間~」のMADムービー。こうしてインターネットでは、あらゆる情報がユーザーによって分割/解体されモジュールとして流通していく

(次ページでは、「インターネットで揺らぐ『筋の通った自分』」)

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