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最高の失敗──カシオ計算機代表取締役 樫尾和宏社長

カシオ社長「腕時計の失敗も成功もスマートウォッチの資産」

2016年01月22日 09時00分更新

文● 盛田 諒(Ryo Morita)

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 どんな偉人にも失敗はある。新しい一歩の礎となる「最高の失敗」に、自分を変える知恵を授かろう。今回はカシオ計算機代表取締役に就任したばかりの樫尾和宏社長の失敗。スマートウォッチ「WSD-F10」で注目を集めるカシオ。新社長はどんな失敗を経験してきたのか?

樫尾和宏:1966年1月22日生まれ。慶応義塾大学理工学部出身。樫尾和雄会長(樫尾四兄弟の三男)の長男にして創業四代目社長にあたる。1991年に慶応義塾大学卒業後、25歳でカシオ計算機に入社。2015年6月、同社社長に就任。


ベンチャー協業で大失敗

── 和宏社長は樫尾和雄会長(前社長)の長男として生まれています。

なんですが、子供のころは何をやっている会社なのかわかっていませんでした。もとは企業向けに計算機を売っていた会社。小学校1年生の頃に「カシオミニ」が発売されて、コンシューマーの会社になったと思います。テレビCMが流れはじめて、ようやく「うちがあれなのか」と。父親も忙しく、月に1~2回くらいしか顔を合わせなかったですし。

── 友達が「樫尾君、電卓持ってないの」とか言ってくるんじゃないですか。

中学生のころ友達に頼まれて売ったことはありましたよ。300~500台くらい。

── 売りすぎですけどね。小売店ですか。

いちばん売れたのはゲーム電卓でしたけど、関数電卓がよく売れました。受験校に通っていたので、数学とか理科の先生にも頼まれまして。

── その後も理系の道を進み、慶応理工学部を卒業後、カシオに入社します。

最初はカシオ電子工業という会社でしたね。ページプリンターをつくっているグループ会社です。でもそこには1年しかいなくて、次がマス株式会社。取扱説明書と広告をつくっていた、カシオ計算機50%出資の会社でした。そこにいきなり副社長として入ったんです。

── 入社2年目でグループ会社の副社長ってすごい話ですね。

とはいえそんな大きい会社ではなく、50~60人くらいの会社でした。それまで技術系のマニュアルしかやっていなかった会社が、新たに広告・宣伝業務を立ち上げることになった。カシオ計算機のホームページ第1号とかも作ったんです。1994~1995年で「QV-10」が出たあたりですか。そこに9年間ほどいたんですね。

── 長いことデジタルマーケティングをやってらしたと。

「最高の失敗」で思い出したのは、そのときのことでした。PCメーカーのアキアというベンチャーがありました。ご存知でしょうか。1999年に知り合いから紹介されて、カシオが合弁でジョイントベンチャーをつくったんです。

── 若い方はもう知らないかもしれません。

台湾ベンダーから低価格のPCを仕入れて、ダイレクト販売するというビジネスモデルでした。当時の社長に提案して「やってみよう!」という話になりました。自分も社外取締役に入ることになったんです。しかし事業はうまくいかず、資金繰りもショート。3年くらい経ったとき、事業はたたむことになりました。

── 失敗したと。なぜだったんでしょう。

強く思ったのは、ベンチャーを支援するだけでカシオならではの事業にできなかったことです。うちがやる以上、カシオらしいモノづくりが必要だと痛感しました。

── 逆に言えば、アキアにはカシオらしさがなかったということですか。

アキアはスピードが命。時代には合っていたと思うんですが、基本的には調達品なので、オリジナリティがあまりなかったんです。カシオに今でも残っている商品はカシオらしいものだけ。そこがないものは廃れてしまいます。

── やや抽象的な質問になりますが、失敗の本質は何だったと思いますか。

やはり「変えられなかった」ことです。アキアとパートナーを組んだのに、カシオらしさを加えることができなかった。だからあれはアキアの失敗というより「カシオとしての失敗」だったんだと思います。

── ただ出資するだけの“スポンサー”ではダメだったと。現在まさにベンチャーとの協業を進めようとやっている大企業にも通ずる話のような気がします。

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