このページの本文へ

前へ 1 2 3 4 次へ

国産クラウドのチャレンジ!「IDCFクラウド」徹底解剖 第1回

失敗から学んだ内製化への道、ネットワークのこだわり、500円クラウドまで

これが僕らの生きる道!IDCFクラウドの真価を語り尽くした

2015年06月30日 07時00分更新

文● 大谷イビサ/TECH.ASCII.jp 写真●曽根田元

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷

Amazon Web Services(AWS)やMicrosoft Azureなど外資系クラウドが圧倒的なパワーでシェアを伸ばす国内のパブリッククラウド市場。国産クラウドの価値や存在意義はどこにあるのか? IDCフロンティア 取締役 技術開発本部 担当役員の西牧哲也氏と技術開発本部 本部長の林眞樹氏と新宿七丁目のバーで語り尽くした。(インタビュアー TECH.ASCII.jp 大谷イビサ 以下、敬称略)

通信事業者としての実績を積んできたIDCフロンティア

大谷:まずは西牧さんのビジネスプロフィールからおねがいします。

西牧:はい。1990年代、何社かのソフト会社で勤務した後、行き着いたのがソフトバンクの通信事業部です。その間、アスキーのデバイス系事業部にも在籍したことがあるんですよ。

大谷:えーっ!そうなんですか? さすがに大谷は学生です。ソフトバンクではなにをやっていたんですか?

西牧:「LCR」って言って、わかるかな?

大谷:新電電に抜けて、通信コストが安くなる「スーパーLCR」ですよね。

西牧:知ってるんだー。「スーパーLCR」は僕が技術仕様書を書いたんですよ。当時は、ソフトバンク本体がLCRやってたんです。その後、日本テレコムに事業を売って、あとで日本テレコム自体を買うんですけど(笑)。その後28年間、通信畑をやって、次にインターネット畑。ヤフーの執行役員を経て、今はIDCフロンティアの取締役 技術開発本部 担当役員として、クラウドビジネスを統括しています。

IDCフロンティア 取締役 技術開発本部 担当役員 西牧哲也氏

大谷:次は林さん。IDCフロンティアの技術開発本部の本部長として、R&Dやサービス開発、情シスのセキュリティなどをメインにやっています。

:僕は今年で21年目。1985年の通信自由化後にできた国際デジタル通信(IDC)という国際電話会社に入社しました。そこは海底ケーブルの権利まで持っていて、国際交換機の保守から社会人としてのキャリアをスタートしています。

大谷:国際デジタル通信は、今のIDCフロンティアの前身ですよね。

:はい。当時の伝送技術はSDHとかで、国際通信ってすごく高価なものだったんですよ。そんな中、プロトコルをIPに変えてトランジットプロバイダーを始めたんです。

西牧:当時は1分630円とか、そんな値段だった(笑)。

:1990年代頃は、インターネットは米国とつなぐのが目的だったので、そこを担当してました。TCP/IPに触ったのもその頃かな。当時は1Mbpsで数十万円とかで、メガ単価でビジネスが成立していた。

大谷:月額5000円で家庭にファイバーがひける今とは隔世の感があります。

IDCフロンティア 技術開発本部 本部長 林眞樹氏

:でも、そのメガ単価もどんどん安くなって。トランジットプロバイダーをやりながら、ISP向けのハウジングを始めたんです。ケーブル・アンド・ワイヤレスIDCの時代は、まさにインターネットのハブだったんで、最初はルーターを置く場所を提供してたんですよ。電源も好きなだけ使ってくださいという、今から考えるとものすごく悠長な時代でしたね。

大谷:私もデジタルモデムから大量のケーブル出てたの見たことあります。

:そうそう。そのうち、サーバーも置くようになって、2001年頃からデータセンターを始めたんです。その頃ですね。コンピューティングに価値がシフトし始めたのは。通信機器ではなく、サーバーがボトルネックになってきたので、一気にエンジニアがつぎ込まれた。

大谷:当時、IDCの親会社だった英ケーブル・アンド・ワイヤレスも、すごい勢いで企業買収していましたね。

:そうですね。デジタルアイランド、エクソダス コミュニケーションズ、PSINet、東京インターネット。だいぶ後にアバヴネットも統合しました。

大谷:でも、現場は大変ですね。

:はい。入館の仕方からスイッチの種類、顧客DBも全然違って、けっこう大変でした。しかも日本法人はなにも知らないまま買収が決まったりしていたので、現場に行って担当者とはじめましてとか(笑)。

「スイッチの種類から顧客DBまで違っていて、けっこう大変でしたよ」(林氏)

大谷:そんなことが(笑)。

:でも、その後ケーブル・アンド・ワイヤレスが日本を撤退するタイミングで日本テレコムIDCとしてソフトバンクグループに入った。これが2005年。そして、通信事業が分離されて日本テレコムになって、データセンター事業をやっていた僕たちはソフトバンクIDCになった。で、2009年にYahoo!JAPANグループに入って、ようやく現在のIDCフロンティアです。

西牧:そのときYahoo!JAPANグループはデータセンター需要が急増していたので、いろんなところを借りてたんですけど、どこも拡張性が足りなかった。だったら、自分たちで主導してやろうということで、その時、話に乗ってきてくれたのが当時のソフトバンクIDC。とにかく北九州データセンター(アジアン・フロンティア)の拡張性がすばらしかったんです。

大谷:当時、データセンターは何個くらいあったんですか?

:白河もできる前なので首都圏と関西に8つですかね。2008年に9つ目となる北九州データセンターの運用を始めました。とにかく会社をいっぱい統合したので、いろんなプロジェクトをやらせてもらった。僕の興味が変わる前に、世の中の価値観が変わるので、ずっと走っている感じですね。

(次ページ、CloudStack入れた頃はどたばただった(笑))


 

前へ 1 2 3 4 次へ

カテゴリートップへ

この連載の記事