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25年前からTCP/IPとインターネットやってきた先輩に話聞いてみない?

西麻布のバーでNTT Comの宮川エバに聞いたテッキーなお話

2015年03月25日 16時00分更新

文● 大谷イビサ/TECH.ASCII.jp 写真●曽根田元

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ふらっと入った西麻布のバーで、グラスを傾けていた先客はなんとNTTコミュニケーションズのネットワークエバンジェリスト宮川晋さん。さあ、今夜はバーでメモをとるような無粋なことはやめて、グラスを片手に宮川さんのテッキーなインターネット話に耳を傾けようか。

イントロ:西麻布のとあるバーにて

「(琥珀の中に見えるのはSDNか、IPv6か)」(宮川)「ギー」(扉の音)
「キャスバルじゃなくて、み、宮川さん!」(大谷)「あら、大谷さん」(宮川)
「奇遇ですね。まあどうぞ」(大谷)「ぜひインターネットの昔話でも」(大谷)
「じゃあ、今日はお蔵入りしそうな話でもしますか」(宮川)「楽しみです」(大谷)

作:宮川晋 ※実際には紅茶を飲んでいました(笑)


UNIX学生だった宮川さんと愉快な仲間たち

 宮川さんのインターネットの出会いは、1990年代初頭にさかのぼる。自身が所属していた東工大の情報工学科の先輩たちは軒並みUNIX好きで、UNIXの日本語化に携わっていた人も多かった。中学生の頃から8ビットコンピューターでハードウェアとプログラミングに親しんできた宮川さんは、そこで水を得た魚のようにコンピューターの研究開発にいそしんだという。

「僕自身はソフトウェア工学の数理論理学をやっていて、プログラムの自動生成を研究していた。理論は先生に習い、バイトでソフトを書いて、サークルのロボット技術研究会でハードウェア。そんな中、サブテーマとして持っていたのが、UNIXとネットワークだったんです」

「僕の師匠筋に当たる篠田陽一先生(現北陸先端科学技術大学)と加藤朗先生(現KMD 慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科)は、IBM AIXのBSDバージョンや逆コンパイルで生成したSunOS 3.5のソースコードを持っていました。篠田先生はX11の前身であるX10を3日間で日本語化したし、ある先輩はnkfというコード変換、別の先輩はk14フォント、別の先輩はktermというxtermの日本語化版を作ったりしていて、これらをフリーソフトとして出しまくってた」

 当時はWIDEプロジェクトの村井純先生が慶應から東工大の助手を経て東大に移った頃で、山口英先生((当時:大阪大学大学院、現:奈良先端科学技術大学院大学教授)や砂原秀樹先生(当時:慶應義塾大学大学院から電気通信大助手、現慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授)も大学院生やせいぜい助手(現在の助教)だった時代だ。そんなとき、先輩たちから勧められたのが、雑誌や書籍への寄稿だった。

「お前もアスキーさんに出入りして記事書けば?って言われて、大谷さんが入るはるか前、南青山のアスキーに行き始めたんですよ。その前後にも、当時A編でバイトしていた同級生のつてで、アスキー編集長のホーテンス遠藤さんにFM音源の話しに行ってますね。デビューは月刊アスキーではなくて、UNIX Magazineで各社のワークステーションを評価する連載を持たせてもらい、けっこう続きました。いっしょにやっていたのが、研究室の先輩の権藤克彦さん(現東工大教授)や今泉貴史さん(現千葉大学教授)といった人たちです」

「UNIX Magazineで各社のワークステーションを評価する連載を持たせてもらい、けっこう続きました」

「研究室の先輩の端山毅さん(現NTTデータ品質保証部長)と友石正彦さん(現東工大教授)に誘われて、PC98版のMINIXの移植のチームにも入れてもらいました。だから、アスキーで出したMINIX1.5にも携わってたし、『MINIXを256倍使うための本』(アスキー刊)も出させてもらいました。当時は、MINIXが286から386にアーキテクチャが変わる頃で、プロテクトモードが使えて、アドレス空間も拡がった。その頃、MINIXのオルタネートカーネルとして生まれたのがLinuxなんです」

「昔、おごちゃん(日本Linux初代会長 生越昌己氏)との対談で話したこともあるんですが、Linuxの初期のコードはコンピュータサイエンスをやってた人間からすると、ちょっとかゆくなるところが多い。メモリ管理を超えて、I/Oに直接プロセスがモノを出せるとか、それって、やっちゃいけないのでは?っていうことだらけ。でも、たとえば、X Windowsの描画のためにシステムコールを通すと遅くなるので、そういう設計になっていた。つまり、セキュリティはある程度無視して、やれることをやろうという発想にみえたのです」

「今のディストリビューションでは考えられないけど、Linuxをインストールするとannonymous FTPがあがってるのが普通、とか何でもし放題。これ大丈夫かな、うーんって思ってたら、386BSDが出てきて、これで行けるじゃんと。で、修士が終わる頃に386BSDに取りかかり、雑誌『Super ASCII』で連載し始めた頃に、ちょうどTCP/IPの技術がこなれてきたんです。そのあと『BSDを256倍使うための本』も書かせてもらいました」

TCP/IPの魅力とインターネットの可能性を見出した博士課程

 こうしたUNIX漬けの学生生活を送っていた1990年代の初頭、UUCPに代わって、インターネットプロトコルとして台頭してきたのがTCP/IPだ。TCP/IPの実装が洗練されてきたのを受け、宮川さんのいた東工大でも学内でEthernetを自分たちで張り、64kbpsの専用線を引いて、大学同士でTCP/IPネットワークを形成されるようになった。これが日本のインターネットの基盤となっていく。

「確か、東大、東工大、京大、慶大、阪大くらいはつながっていたと思います。だから東大のファイルシステムを東工大からNFSでマウントしてみるとか、本郷の東大にいる友達をfingerコマンドで引っかけて、人の迷惑顧みず、talkコマンドで画面壊して、『今から呑み行くぞー』と投げつけてみたり。TCP/IPって面白いなあって思っていました。TCP/IPのネットワークでメールやFTP、Telnet、IRCなどを使っていて、HTTPが出るくらいで博士課程が終わったんです」

「村井先生や砂原先生も、今までインターネットは大学だけつないでいたけど、これからは商用もやるんだと言い始めた。IIJができて、 前後してAT&TのJENSが上陸した。今から考えると、その頃くらいからNTTもTCP/IPでつなぎ始めてたんですよね。これが1992~3年くらい。IIJの最初のサービスは今でも覚えていますよ。やっぱり研究室の先輩だった三膳孝通さん(現IIJ 常務取締役)がルーター担いで来ましたから(笑)。当時はInteropもまだなくて、『UNIX Fair』というイベント。私も現場でケーブル張ってましたよ」

 TCP/IPの魅力に取りつかれた宮川さんは、学生でありながら、ネットワークのスキルを現場で磨き続けていく。そんな中、手がけたのが東京女子大学のTCP/IPネットワーク化だ。

「当時父親が東京女子大の学部長をやっていたんです。どうやら学内ネットワークのTCP/IP化の話が持ち上がってたらしく、ある日家に帰ったら、オヤジから『お前UNIXとか得意なのか?』と聞かれたんです。父は文系だったので、なんでUNIXなんて知ってるんだと聞いたら、計算機センターの先生から『宮川先生の息子さんはTCP/IPに詳しいから、ぜひお助けしてもらいたい』とお願いされたんだと言われました」

 こうした縁で当時修士の学生の2年生だった宮川さんは、東京女子大のUNIXマシン導入とTCP/IP化を手がけることになる。東京女子大の計算機センターもノウハウがないため、宮川さんが学内ネットワークを設計し、ドメイン名を取得したり、外部とつなぐ専用線を引いた。ベンダーと渡り合ってネットワーク機器やワークステーションの導入を指揮し、コンフィグまで作ったという。この経験で、宮川さんはインターネット商用化のインパクトを身をもって実感したという。

「Nifty-serve、ASCII-netとかパソコン通信が全盛期だった当時。普通の人にとってはインターネットってなに?という存在です。でも、これはみんなが使うモノになるなという直感があった。理由とかじゃなくて、確信しているというある意味、宗教的な体験だった。若い時に、10年後に来る技術に出会えたのは本当に幸せでしたよ」

(次ページ、村井氏のNTT批判に疑問を持ち、あえてNTTに入社する)


 

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