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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第32回

『翠星のガルガンティア』村田和也監督インタビュー 後編

レドの相棒チェインバーはスマートフォンだった!?

2013年10月19日 12時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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(C)オケアノス/「翠星のガルガンティア」製作委員会

『ガルガンティア』のテーマは「共存・共栄」

―― なるほど、船同士が人と物資を運んで行き交う躍動感は、『ガルガンティア』の船団の描写にも良く現われていました。

村田 あと、「移動し続けている」ところに惹かれるんですね。人が住んでいる場所が移動し続けているというのは、普通、地面の上に住んでいる僕たちにはないことですよね。移動してまわりの景色がどんどん変わったり、自分の居場所そのものが変わっていくという。遊牧民や、トレーラーハウスで移動する人たちなど頻繁に住む場所を変える人々もいますが、それでも常時移動しつづけてはいないですし。

 住むということに対しての意識の差も興味深いんです。例えばカンボジアのトンレサップ湖の水上集落に住む人たちなどは、ずっと船の上で暮らしていますが、もう生まれたときから水の上で暮らしているから、陸地に住む感覚がどんなものかわからない。その感覚は我々にないものですよね。慣れない僕らが実際に住んだら不便に決まってるんですけど、だからこそ余計に憧れますね。

 『ガルガンティア』の船団という舞台は、そういった自分の子供の頃からの思いが構想としてどんどん発展してできたものです。

―― 「移動し続けている人たち」に興味を持たれたということですが、ガルガンティアの船団の人たちならではの気質にも繋がりそうですね。自分の住処が常に移動し続けるということは、人間に対して何かしらの作用があると思われますか。

村田 あると思います。土地に縛られたりしないし、土地の所有に対しての執着がない。

子供の頃から抱いていた船への憧れと、大河を航行する移民船のドキュメンタリーが『ガルガンティア』の世界設定に大きな影響を与えたという

 生まれた場所で死ぬとか、自分の土地はここだから、ここにいなければならないとか、居続けたいみたいな意識とは、またちょっと違うと思いますね。

 たとえば僕たち日本人は、この国で暮らしている限り、土地の上に住むしかないという現実がありますよね。その土地に対する所有権や居住権が財産であり生きていく上での拠り所にもなるわけですが、逆に、地面に縛られているというか、自由の利かない感じというのがどこまでもつきまといます。

 船団の人たちは、ある特定の場所にこだわらずに、自分の事情に応じて自由に住む場所を移り変われる、フットワークの軽い人たちというか、そういう生き方が当たり前の世界として想定しています。

 そうした船団やそこに暮らす人々を描くことで、『ガルガンティア』のテーマである「共存・共栄」について表わすことができないかと考えました。

―― 船団の人たちと、作品テーマである「共存・共栄」とは、どのように繋がっているのでしょうか。

村田 船団の人たちは、自分たちの住処である海を、「所有」してはいないんです。あくまでも「間借り」。“海は誰のものでもなく、みんなのものである”と。そういう発想なんですね。

国家間の対立は、土地の所有権を争った20世紀的対立

村田 レドのいた人類銀河同盟は、20世紀に人類が向かった世界を象徴させていて、「過去の人間の生き方」として描いています。一方、船団は、「これから先の人間の生き方」についての提示になっています。

 人類銀河同盟と船団を対比させることで、人間の過去とこれからの両方について描ければと思ったんです。

 人類銀河同盟はヒディアーズと長い間戦争を続けています。双方とも相手を完全に殲滅するために戦っています。対立を続けた結果、互いに消耗していくという。人類銀河同盟が陥っている状態というのは、19世紀末から20世紀前半にかけて、実際に僕たちの世界で起こっていた状況だと思うんですよ。

 「国」という組織を維持するために行なわれる行動が、戦争に繋がって、人間本来の幸福追求の域から逸脱しまう。土地を持ち、資源を持つことが経済の安定につながり、それが国力となる。国力を維持発展させるためには、国民全員が「国」のコマとなって働かなければいけなくなった。それが「全体主義」というシステムですね。

(C)オケアノス/「翠星のガルガンティア」製作委員会

―― 前回、「組織としての目的行動の効率化に特化させすぎて、人間が個として自分自身の幸せを考えることを忘れてしまった」というお話が出ました。

村田 国というのはもともと、そこに住む人たちが安全に暮らせるように自然発生的に生まれた共同体からスタートしているわけですね。ですが、そこを統括するリーダーが強い力を持つようになると、その影響力を広げて他の共同体を支配吸収してどんどん大きくなっていった。やがてリーダーは王様と呼ばれるようになっていきます。

 でもその頃の戦争は国境線争いで、どれだけ多くの領地を獲得できるかを目的としていて、戦いに行くのは軍人だけでした。中世の都市国家とその市民とか、封建制度下の王様と領民の関係性というのは現代に比べればあいまいなものでしたが、19世紀後半頃から「国民国家」というかたちが生まれて「国家」という単位が非常に明確で堅固なものになり、「人民と土地」が不可分になってきた。国は王様のものではなく国民のものになってきた訳です。

 同時にそれは、ある土地に住んでいる人が、その土地を治めている国と運命共同体になってしまったということでもあるんですね。ひとりひとりが、「自分はここに住んでいる以上、ここの国民であって、その国の利益を確保に協力しないと自分の人生が危うくなる、自分の生活が危うくなる」という状況が生まれた。

 自国の利益を守るために他国の主張を黙らせる、そのためには実力行使しかない。そういう状況になったときには、国民全員がそれに参加せざるを得ない国家になったということです。自分たちの幸福のためには自分たちの国家を守らなければならない。そのためには命を捨てる覚悟も必要になる。それは「幸せ」を獲得するために「死ぬ」ことを要求されるという矛盾をかかえたシステムとも言えます。

(C)オケアノス/「翠星のガルガンティア」製作委員会

―― 国という組織を守るために、人が犠牲になるという逆転現象が起き始めたわけですね。

村田 さらに時代が下ると、物資輸送手段の発展、世界各地における資源の開発、通信機器の発達などによって、国の勢力圏というものが、国土を超えて広がってしまった。国土の物理的な広さとは関係なく、利用可能な物資とエネルギーをいかに多く広く確保できるかが国力、つまり国の安定と直結するようになった。

 そのおかげで自国からはるか遠い地域にまで足を運んで戦争する、または遠い国どうしが利害を一致させて共闘するようになった。個人の目線からすると、もはや何のために自分が戦っているか分からないという状況に陥ってしまったんです。

 20世紀前半の戦争、特に第二次世界大戦は、経済勢力圏の争いでした。列強と呼ばれる主力国が自己利益の確保ために戦争を始めてしまい、世界中を巻き込んで本当にえらいことになってしまった。それにオーバーラップするように経済システムの思想の違い、つまりイデオロギーの対立というものが加わって、20世紀の半ばから後半の冷戦終結まで継続し、いまもまだ続いている地域がある。個々の国民が望んでいることと、属する国家が目指していることが乖離したままの国が多数あります。

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