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【所長コラム】「0(ゼロ)グラム」へようこそ

サイボーグ女子高生とデジタル教科書

2010年05月31日 12時00分更新

文● 遠藤諭/アスキー総合研究所

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 東京学芸大学といえば、4月28日に「学校図書館で変わる教育・教員養成」というシンポジウムにも参加させてもらった(関連記事)。角川グループの児童レーベルである“角川つばさ文庫”と、アスキー・メディアワークスで文庫を出している担当者とのつながりで、司会をすることになったのだ。わたしが、そんなところに引っ張り出されるのも、いま学校とデジタルの関係が問われているからだろう。

 わたしが20年ほどいた『月刊アスキー』は、長く学校や障害者とコンピュータの記事をやっていた。わたしが直接それにかかわることはなかったので、このテーマは完全に門外漢である。それでも、テキスト処理の連載を延々とやっていたので、学校の先生との繋がりは少なくない。ワークショップでは、10年以上ご無沙汰しているK先生とも再会した。

 しかし、いまやデジタル教科書をはじめとするいくつかのテーマが急速にクローズアップされている。この分野で長く努力されてきた方々には、「いまこのドサクサで念願をかなえちゃえばいいじゃないですか」と言いたい気分である。

 シンポジウム後の関係者の集まりでは、わたしは、数十人のみなさんの前に引っ張り出された。そして、学芸大の前田 稔氏に「2015年にすべての生徒がデジタル教科書を使っていると思いますか? またその理由は」などと質問された。それに対して、わたしは「デジタル教科書を使っていると思う」と答えた。


これから考えるべきは
学校におけるコンピューティング

 学校図書館のイベントを拝聴していて、2015年に図書館は「学校の中のYahoo!」のような存在になるべきだなどと思っていた。教科書が“シーケンシャル”な学びなら、図書館は“ランダムアクセス”の学びを担っている。もともと図書館の機能はそこにあるわけで、ネット時代にそこにいちばん近いイメージは、「ポータルサイト」だと思う。

 そんな時代に、電子書籍端末がないはずがないのではないか? この「学校の中のYahoo!」という言い方は、その場にいた司書の方々に、ちょぴり受けたようである。ふだん図書館の仕事をされている方々は、図書館が、単なる読書センターであるとか、本を読む習慣を付けましょうとか、そんなことではないと認識しているのだと思う。

 もっとも、2015年にデジタル教科書が使われているとして、それがいわゆるタブレット型でなければならないのだろうか? という疑問もわいてくる。

 わたしは、「それよりも、パソコンをふつうに教えるべきでしょう」と言った。日本はパソコンの人口あたりの普及率が、世界で24位だというデータもある。若年層がパソコンを使わずケータイしか利用しないことによる国家的・経済的なダメージは、誰かがきちんと試算すべきだとわたしは思っている。

 パソコン以外のあらゆるクローズドなシステムは、いわばただの家電である。それが、リテラシーも上げないしそれ自体の進化もどこかで終わることは、日本のパーソナルワープロの歴史が証明しているではないか。いまちょっとタブレットが流行で、カッコ良く見えるだけで、過大に評価されすぎている可能性だってある。

 そして、「知の再構成プロセス」というべきものも、たったいま凄い勢いで変化しようとしている。たとえば、誰かが本を書く、ブログに書く、記事に書く。それをみんなが読んでツイッターみたいなところで批評して、意見を付け加えて、ときには誤解して、RTされていく。それをまた誰かが、何かの文章を書く。そうしたサイクルが、知の再構成というものになってきている。それには、パソコンくらい自由に何でも始められる端末のほうがいいと思うのだ。

 ところが、このわたしの意見に対する学生たちの反応は冷ややかだった。彼らの答えは「パソコンは難しいので、まずはボクらの考えたデジタル教科書端末から持たせるべきです」というものだった(中国の男子留学生が説明してくれた)。「子供は、電子端末になることで勉強するようになる」という鋭い指摘もいただいた(これはお子さんのいる研究生の方)。前田先生も、ニンテンドーDSのデカいのみたいなのがデジタル教科書になる可能性もあるというようなことを言っておられたりする。

 要するに、デジタル教科書というのは、「コンピュータの個人利用」という問題にほかならないのだ。

 わたしは、「一応、25年ほどパソコンの分野にかかわってきて、デジタル教科書をタブレット型だと決めてかかるのはまずいんではないか?」と、自分で勝手に提示した疑問にこだわり過ぎていることに気づいた。たぶん、教科書の電子化なんかさっさとやってしまって、その先の学校のコンピューティングをまじめに考えるべきなのだ。

 ひょっとしたら、学校というガチガチの制度とういものをゆるやかに変えていく可能性もある。

「熟議」

「学校図書館で変わる教育・教員養成」で展開されたワークショップは、「熟議」というものだったらしい。わたしは、この言葉の意味もサッパリ分かっていなかったのだが、詳しくは文科省のサイト「熟議とは」(http://jukugi.mext.go.jp/about/)をご覧あれ。


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