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古田雄介の“顔の見えるインターネット” 第53回

僧職系男子・仁鐵/蝉丸Pが奏でる「仏教の新しい魅せ方」

2009年07月27日 13時00分更新

文● 古田雄介

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お坊さんを目指したのは「団塊Jr.の競争社会ゆえ」

―― コンテンツの真意をつかむために、仁鐵さんの生い立ちからお聞きしたいと思います。まずは仏門に入られた経緯を教えてください。

仁鐵 高校1年の終わりに、県立高校から仏教系の高校に転校しました。自分は生まれが昭和48年でして、ちょうど第二次ベビーブームの時期でした。だから同世代の人間がすごく多いんですよ。

 当時は受験戦争などが話題になっていまして、大学に進学するにも15クラス前後ある中の進学系の3クラスに入らないと厳しいと言われていました。高校1年の頃、そこに入るのは無理だと感じ、かといって、そのまま専門学校などに行ってどこかで働くとういのも、ピンとこなかったんですよ。

 なにしろ普通に就職するにもライバルが多いんです。ならば、それほど人が集中しないであろうお坊さんになるのも手だなと思い至ったわけですね。

仁鐵氏。住職の住む庫裏(くり)に構えた事務所にてビデオチャットに応じてもらった


―― 進路のひとつとして仏門に決めたと。

仁鐵 ええ。当時はちょうどバブル経済が盛り上がっていまして、やたらと横文字職業が流行っていました。皆が横文字の職業に就きたがるというのであれば、あまり人が行かない漢字の職業のほうがまだ勝負できるかなと。それで最初は落語家に興味を持ったんですけど、知人の伝手でプロの方に話を聞きに行くと「噺家も厳しい。せめて高校を卒業してからまた来なさい」と言われて「どうしたものかなぁ……」と考えていたんです。

 その帰りにちょうど目の前をスクーターに乗ったお坊さんがピューっと通り過ぎまして、僧侶という選択肢が頭に浮かんだんですよ。それで母方が檀家になっているお寺に相談に行ったら、住職が「よっしゃわかった!」と言って仏教系高校への編入手続きを進めてくれたんです。どんな職業か聞きに行っただけで、まだ決意していないのに(笑)。

 まあでも、古典や仏教思想に興味もあったので、行ってみるかと。そこからは本腰を入れて仏教を勉強するようになりましたね。


―― なるほど。ちなみに、オタク系の趣味はまだ持っていなかったんですか?

仁鐵 いえ、中学時代にPC-8800をいじくっていましたね。あとは、あとは剣道部の合間に、友人に誘われてサバイバルゲームしたり、テーブルトークRPGしたり。そういう世界にどっぷりハマっていたんですが、仏教系高校は途中編入なので高校の寮には入れず、宿坊寺院に住み込みで通っていたんです。だからリソースのすべてを新生活に宛てることになり、そうした趣味には一切触れるヒマがありませんでした。おまけに下界の情報があまり入らない環境だったので、電話で友人から「PCの規格がみんな一緒になったんだよ」と言われたときは本気で冗談だと思ってましたから(笑)。

 それから大学に進学して下宿生活になりましたが、PCを買う余裕もなかったのでネオジオで遊んだり、セガサターンでバーチャファイターをプレイするくらいでした。卒業後は色々あって全国を転々とした後、高野山に戻りましたが、高校からの足かけ10年は、修行や法務で忙しかったですね。

楽器演奏の土台も10代の頃に培ったという。「弟がヘビメタバンドのドラムをしていたのでちょっと貸してもらってプレイしたり、ギターもピストルズが数曲弾けるくらいやっていました。まあ、かじっては途中で辞めての繰り返しです」


―― では、パソコンへの興味が復活したのはいつ頃ですか?

仁鐵 2001年……28才の頃ですね。当時は別格本山で「随行」というお偉いさんの付き人のような役職と、「執事」という中間管理職のような役職を兼任していました。そのとき、寺のホームページを作るという話が出て、「アンタ詳しそうだから」と私が担当になったんです。お寺の経費でパソコンを揃えてもらい、ちょくちょくネットが見られるような環境になりました。Windows Meマシンでしたね。

 あの頃のネットはテキストサイト全盛期で私もすぐにハマりこみました。なにより普通の日記を発信してもいいんだという驚きが大きかったですね。ネットは見るための受け手の道具という意識だったのが、自分から発信もできて個々人の日記がすごく楽しいというのが非常に新鮮だったと覚えています。

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