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「お仕事は何をなさっているんですか?」

【あおきゆかの台湾まっくのうち弁当(第2回)】

2005年07月01日 04時16分更新

文● あおきゆか

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「お仕事は、何をなさってるんですか?」
コレ、私にとって聞かれて一番困る言葉。
「体重は何キロですか?」と言われたのと同じぐらい困ります。

今年4月のこと。
実は台湾で、絵の個展をする機会に恵まれました。その時も、ギャラリーの人にプフィールを用意するように言われ、書くのに困りました。
仕方ないので「チビの頃、嘘つきだった」とか、「私がバカで親が悩み、週一回にバカを治すおまじないを頼んでいた」とか、「毎晩お化けと布団の取りっこをしていた」とか、「のべ四十三カ国貧乏旅行した」とか、そんな事をつらつらと書いてごまかしました。
コレと言った職歴も芸歴もなし、熱心な活動や受賞歴もなしってことだス。 で、あんた誰? ってココでも思われてるようなので、今回は、ちょっと私のこと。

なぜ台湾に住んでいるのか?
現在の理由は、台湾の友人が「帰るな」と言い、日本の友人は「帰って来るな」と言うから。それにココは居心地が良い。
空気、水の悪さと、使用後のトイレットペーパーをゴミ箱に捨て、そのブツを自分でゴミに出す事(流しちゃいけないのよ)、この3点に耐えられればここは日本人にとってパラダイス。台湾人は、日本人が良い人ばっかりだと勘違いをしてるんでね。

カンボジアへ出発する成田空港。ヘルメット型麦わら帽子をかぶり、嬉しそうにチケットを確認する貧乏旅行時代
カンボジアへ出発する成田空港。ヘルメット型麦わら帽子をかぶり、嬉しそうにチケットを確認する貧乏旅行時代

では、台湾に来た当初の理由?
遠い昔にさかのぼります。
モノを作るのが好きで、頑張って美大に入ったら思ったよりつまんなかった。だから、学生時代から小金を貯めては、カメラぶら下げて1、2ヵ月の貧乏旅行をし始めた。その頃も作品作りは細々と続けていたけど、子供の時のようにワクワク出来ません。8年くらい続けると貧乏旅行への情熱も薄れていきました。

「こんなはずじゃなかった!」
と、ふと我にかえる……。
電車の中で「人生の坂道を凄い勢いで転げ落ちて行くみたい」と友人に打ち明け、隣に乗り合わせた初老の和服女性に慰められたりした(相談の声がデカかったんだと思う)
とにかく、その頃「堅気になろう」そう思った。
まず、堅気の一歩として旅行を3日にしてみた。
それで来たのが台湾。2002年の春。その時ミラクルマッサージに出会い、台湾に興味を持ったのです。何がミラクルかと言うと、帰国後しばらくはジャンプで飛び起きるほど目覚めがよく、希望に満ちたラジオ体操の歌のような朝を過ごす事が出来たのです。パワーに満ちあふれ、何でも出来そうな感じ。

「是非、このマッサージを身につけて、立派な社会人になりたい!」

気がついたら、その年の秋にはリュック背負って、自作の「お願いしますマッサージTシャツ」(お揃いで先生の分もアリ)を着て、マッサージ店の前に立っていました。 それから約半年間、店のマッサージ台を寝床にした修行生活が始まったのです。



私の愛用のiBook G4 私の愛用のiBook G4。勉強机の上には青いトンカチをもったバッタの神様がぶら下がって、わたしが怠けないように見張ってる
私の愛用のiBook G4。勉強机の上には青いトンカチをもったバッタの神様がぶら下がって、わたしが怠けないように見張ってる

堅気への路の準備の準備(台湾行き)は楽ではありませんでした。当時は、やっとバイト生活を卒業して、お菓子のパッケージやお店のCIや内装デザインの仕事が増えて来た頃です。私はお金を貯めるため、自分のデザインした現場で職人として働くことを思いつきました。現場では、親方を「おじさん」と呼んで叱られたりして、当然仕事は大変でした。

平行してデザインの仕事もあったので、デスクトップのMacを膝に抱えてトラックに乗り込み、材木と一緒に現場に行きました。日夜続く肉体労働の後、夜中はパッケージの仕事。来台前日まで連日の現場仕事で、ペンキのシブキが顔にぴゃっぴゃっ飛んだまま、クタクタになって台湾に着いたのです。

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