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世界企業パナソニック 90年目の決断 第1回

日本企業は世界でどう戦うべきか?

パナソニック――社名変更の深層

2008年10月01日 04時00分更新

文● 大河原克行

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動き出した極秘プロジェクト

 2007年10月。約10人の社員が、大阪・門真の本社会議室に召集された。

 上司からの通達、あるいは経営企画部門からの直接のメールによって、極秘裏に集められた社員たちだ。

 極秘プロジェクトに参加した社員のなかには、上司に会議の内容を報告できないまま、何度も門真本社への出張を余儀なくされる東京勤務の社員もいた。

 このプロジェクトの狙いは、社名、ブランドを変更、統一するにあたり、どんなリスクが想定されるか、どんな対応を図るべきか、そして、それに関わる費用はどの程度かかるかを検証することにあった。

 プロジェクトチームの設置を指示したのは大坪社長自身。経営企画部門が事務局を務め、人事、経理、知財、法務、広報、宣伝などの各部門から、40~50代の中堅幹部が顔を揃えた。

 このとき、すでに大坪社長は、社名変更のタイミングを模索していた段階だったといえる。

 それは、プロジェクトの目的が、社名変更、ブランド統一を前提としたものであり、変更すべきか否かを目的としたものではなかったことからもわかる。

 「看板の付け替えに掛かる必要だけで約200億円が見込まれる」、「ナショナルブランドに親しんできた高齢者のユーザーにどう説明をするのか」、「地域販売店の理解を得られるのか」、「どんな形で報道発表すべきか」。議論のテーマは、実に50以上に及んだ。

 「パナソニック株式会社にすべきか、あるいは株式会社パナソニックにすべきか」というテーマも、このブロジェクトチームのなかで議論された。結論は、まず先に、社名が来たほうがインパクトが強いだろう、という理由から、「あと株」案が提示された。

 そして、議論された結果は、逐一、大坪社長に報告された。この報告の数々が、大坪社長の決断をさらに強いものにした。

 11月になって、用件を告げずに、中村邦夫会長と面会した大坪社長は、そこで初めて、社名とブランドをパナニックに統一することを正式に伝えた。

 わずか一分程度の会話のなかで中村会長は、「若い人も喜ぶだろう。がんばってくれ」と激励したという。

 中村会長は、2003年5月に、当時の社長として、海外のブランドをすべてパナソニックへと統一する決断をしている。それは、海外経験が長い中村会長が、社名とブランドが異なるデメリットを自ら強く実感していたからこその決断だった。

 97年に、当時、カナダ松下電器の社長を務め、社名をいち早くパナソニックカナダへと変更する決断をした牛丸俊三副社長は、それを補足するようにこう語る。

 「消費者は、パナソニックというブランドを知っていても、それが松下電器が生産しているものだという認知が低い。特に海外ではそれが強く感じられる。社員が、知人に松下電器に勤めていると話しても、それは何の会社かという話になる。ところがパナソニックに勤めていると話すと、それはすばらしいといわれる。社名とブランドの統一は、消費者への理解を深め、社員のモチベーションを引き上げることにもつながる」

 このとき、米国松下電器で社長を務めていたのが中村会長。中村会長自身も、米国で、同じことを痛感していたことは想像に難くない。

次ページ「創業家への挨拶 ━━経営理念は不変」に続く

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