米軍、比島に来攻、捷一号作戦発動へ
同年10月、ついにフィリピンに来攻した連合軍との間で「比島沖海戦」が発生した。フィリピンは、日本本土と東南アジアの南方資源地帯の中間に位置し、ここを奪われると日本は文字通り命脈を絶たれることになる。
10月23日、捷一号作戦が発動され、「大和」、そして「大和」型二番艦「武蔵」、「長門」など第一遊撃部隊はボルネオ島ブルネイ湾を出撃、フィリピン方面に向かった。翌24日より米潜水艦や航空部隊の激しい攻撃が受け、「武蔵」などを多くの艦艇を失った。敵の猛攻の中、25日には艦隊は米軍上陸部隊を攻撃するべくレイテに向かったが、指揮官栗田中将は突然艦隊を反転させ、後退してしまった。これが後世「謎の反転」と呼ばれるもので、作戦は中止となり、「大和」などは残存艦隊は日本本土に帰還した。
「大和」、最後の戦い
昭和20年(1945年)4月1日、遂に沖縄に連合軍が上陸した。日本軍は沖縄を救援するべく大規模な攻撃を実施、「大和」以下の第二艦隊も出動することとなった。この時、すでに南方との交通路も途絶し、艦艇を動かす燃料にも事欠く状況で、多くの艦艇は本土に係留される状況となっていた。そのため第二艦隊の構成は、戦艦はもはや「大和」のみで、他に巡洋艦「矢矧」、そして駆逐艦「雪風」など総勢10隻の小艦隊となっていた。
4月6日、瀬戸内海西部徳山沖を抜錨した第二艦隊は、日本海軍最後の艦隊として出撃した。当初は連合軍の目を欺くため、佐世保へ向かうと見せかけた欺瞞航路を取っていたが、米索敵機に発見されたことから欺瞞航路を取ることを中止し、一路南下を開始した。そして迎撃する側の米海軍では、沖縄周辺に展開していた空母より延べ367機にも及ぶ大攻撃隊を発進させた。激闘すること2時間、「大和」は魚雷12本、大型爆弾7発、小型爆弾多数が命中し、遂に多量の浸水により転覆、同時に弾薬庫の爆発により沈没した。「大和」の乗組員のうち、戦死者は2740人、生存者はわずか276人だった。
なお、「大和」は北緯30度43分、東経128度4分の水深345メートルの海底に、艦を二つに折った状態で沈んでいる。
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