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呉軍港めぐり……大和ミュージアム編

戦艦大和、未だ沈まず

2008年08月23日 12時00分更新

文● 吉田/Webアキバ編集部

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艦橋付近

艦橋付近を左舷前方側から見たところ。「大和ミュージアム」に展示されている「大和」は、昭和20年(1945年)4月の最終出撃時の艤装となっている。本来主砲で戦うべき戦艦がハリネズミのように対空火器を増設した姿は、すでに航空主兵の時代となり、もはや戦艦の時代は終わっていたことを示している

艦橋

艦橋を左舷側より。それまでの日本戦艦は、砲威力の増大に伴う砲戦距離の増加により、増設された各種観測機器を組み合わせた複雑な形状の艦橋デザインが普通だった。しかし「大和」型で当初から各種観測装置を合理的に配置し、すっきりした形状デザインとなった

戦艦長門の艦橋部分

参考用として戦艦長門(1/100模型)の艦橋部分。就役時から改造と増設を重ねて複雑な構造の艦橋となった昭和19年(1944年)の状態のもの。ちなみに艦艇は竣工時から最終時までの間、機能強化のために改造されるのが常のため、どの時代のどの状態か、というのが模型化される際に重要になってくる

艦橋を上部から

艦橋を上部から見る。艦橋左右に突き出した棒状の突起物は、日本光学製15メートル測距儀。主砲などにも測距儀が搭載されているのに艦橋にもあるのは何故か。これはレーダーが実用化される以前、光学装置で敵艦への距離と方位を測定していたが、砲戦距離の増大に伴い、基線長が長く(つまり精度が高い)測距儀を艦内で一番高いところ(つまり遠くまで見通せる)に設置する必要があったのだ。それでこの15m測距儀を艦で一番高い位置、すなわち艦橋上部に設置した、ということなのだ。なお、測距儀の上部にあるのは水上見張用の二二号電探(レーダー)。探知距離は戦艦クラスの大型艦で約35キロメートル、巡洋艦クラスの中型艦で20キロ、駆逐艦クラスの小型艦で17キロ

艦橋上部

同じく艦橋上部。双眼鏡が設置されているフロアが防空指揮所と呼ばれたところ。空襲の時には、艦長がここに上がり、ここから敵機を監視して戦闘指揮を行った

戦闘艦橋付近

窓が並んでいる戦闘艦橋付近。「男たちの「大和」」後半で、第二艦隊司令長官伊藤少将や有賀艦長が戦闘指揮を取っていたのがここ。また、宇宙戦艦ヤマトで言うところの第一艦橋だ。戦闘艦橋下部の逆三角形状の構造物は遮風板。前方からの風をこの装置で上に吹き上げ、艦橋そのものに前方から直接風が吹き込まないようにするもの。なお、エヴァンゲリオンのネルフ本部の発令所のデザインが、この「大和」艦橋のデザインから採られているのは有名な話だ

艦橋後部

艦橋後部。艦橋後部から左右後方やや斜めに突き出している構造物は、旗流信号を掲げるための信号ヤードだ。ここにZ旗なども掲げられたのだ。しかしこの模型は見れば見るほど精密に出来ている

艦主要部

第二主砲から艦主要部にかけて。艦橋直前の第一副砲(主砲よりやや小振りな大砲)は、軽巡洋艦時代の最上の主砲を流用したもの。巡洋艦搭載の砲なので、当然戦艦主砲や大型爆弾の直撃には耐えられない。「大和」搭載に際し最上搭載時代より防御が強化されたが、それでもここが「大和」のウィークポイントだ、と指摘する人は多い

木甲板

木甲板。「大和」ほか海軍艦艇は、鋼鉄製の装甲板の上に木やタイルを貼って滑り止めと艦内の防暑用とした。「大和」の場合は台湾檜を使用していた。なお、戦艦「大和」の最終出撃時には、多くの証言、および米軍偵察機の写真解析より木甲板部分は黒色の防火塗装が施されていた、と言われている。ただ、「大和ミュージアム」の模型では、この甲板について防火塗装の表現は行なっていない

木甲板

木甲板。「私が貼りました!」的解説。呉海軍工廠時代からの船大工の方が貼ったのだそうだ

煙突部分

煙突部分。公試排水量約7万トンの巨大な艦体、さらに主砲塔を始めとするシステムを駆動するための、15万軸馬力の機関からの排熱を放出するためのものだ。PCを自作する人は排気や排熱が如何に重要であるかご存じだと思う。「大和」の煙突も、機関の排気を滞りなく艦外に排出し、かつ各種光学兵器の測的作業に影響を与えないようにこのような形状と位置となっている。 ちなみに「大和」型は、煙突内部にも防御用の装甲が施されていた。もちろん排気を排出するために穴を開けなければ成らないわけだが、煙突内の装甲板に蜂の巣状に穴を開け、それを複数枚平行にずらして配置することで、爆弾や砲弾を防ぐ仕組みとしていた

艦中央部右舷の12.7cm連装高角砲および機銃座付近

艦中央部右舷の12.7cm連装高角砲および機銃座付近。「大和」就役時から設置されていた高角砲や機銃座には、爆風避けとしてシールドが備え付けられている。「大和」型主砲の発射時の爆風の衝撃は、照準機などの精密機器を破損させたり、操作中の兵員を吹き飛ばしてしまうような激しい物だったという。そのためには砲塔のシールドは必須だったのだが、その後増設された高角砲には、資材不足などの理由からシールドが無い物が用いられた。また、機銃に関してはシールド付きが増設されたが、やはり後期にはシールド無しのものが増設されている

左舷側から見た「大和」中央部

左舷側から見た「大和」中央部。大艦巨砲の切り札として生み出された戦艦「大和」だったが、時代の主役はすでに航空機に移り変わっており、大戦末期にはこのようにハリネズミのように対空兵装を備えなければならない状況に陥っていた

高角砲

高角砲。ちなみに「高角砲」とは旧日本海軍の呼称で、旧日本陸軍では「高射砲」と呼んでいた。 これだけの対空兵装を備えた「大和」だったが、対空射撃の効果は低かった。理由として、対空射撃の際に電探(レーダー)との連動する仕組みがなかったためとすべて視認に頼ったこと、さらに日本軍では高射砲には時限信管を採用していたことが挙げられる。時限信管は予め設定した時間で炸裂するもので、第二次世界大戦の高速化した航空機に対しては威力が極めて低かった。「大和」最後の戦いである「坊ヶ崎沖海戦」(「大和」水上特攻)では、米軍機撃墜数は僅か10機程度と伝えられている

(次ページへ続く)

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