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石井裕の“デジタルの感触” 第27回

石井裕の“デジタルの感触”

表現と感動:具象と抽象

2008年01月20日 16時58分更新

文● 石井裕(MITメディア・ラボ教授)

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デジタル表現の「意味」


 今、デジタル表現の「意味」について考えを巡らせている。

 デジタルの意味を考えるときには、メディア自体の持つ絶対的価値ではなく、そのメディアを通して表現・伝達されたコンテンツが、どれだけの「感動」を受け手の心に与えたかを測ることが大切だと考える。

 さらに、デジタル時代が到来するよりもはるか以前から存在していたメディアの変遷も、新鮮な視点を提供してくれる点も忘れてはならない。つまり、手書きの写本から印刷へ、活字小説からラジオドラマ、そしてテレビドラマへといった不連続性をはらんだ歴史的事象を参照するわけだ。



デジタルが孕む「欠落の穴」


 本連載の第2回では宮沢賢治の「永訣の朝」肉筆原稿※1を引き合いにして、活字印刷・出版に対する筆者の素朴な疑問を示した。

※1 妹・トシとの別れを歌った宮沢賢治の「永訣の朝」。その肉筆原稿は花巻市の宮沢賢治記念館が所蔵している(参考記事

 等品質の活字で美しく印刷された文庫本の「永訣の朝」。私は擦り切れるほどその文庫版を読んでいたにもかかわらず、花巻市の宮沢賢治記念館で見た肉筆原稿は、文庫版からは一度も感じ取ることのできなかったリアルな感動をもたらしてくれた。変色したシミだらけの原稿用紙には、書いては消して、書いては消してという一連の創作プロセスがそのまま残されている。彼の「身体の痕跡」、そして精神の葛藤が塗り込められていたのだ。

 しかし「永訣の朝」という作品は、活字印刷という出版マスメディアに変換されたときに、賢治(表現者)の「身体の痕跡」も、「苦悩のプロセス」も欠落させてしまう。これは、効率性を重視する現在のデジタル表現(データフォーマット)にも当てはまる。同じ「欠落の穴」を抱えたまま、活字印刷メディアを模擬(エミュレート)しながら育っているからだ。


(次ページに続く)

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