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松岡美樹の“ネットメディアの心理学” 第9回

スルーが効く理由(わけ)、効く場合

2007年07月20日 22時00分更新

文● 松岡美樹

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相手から攻撃を受けたケース


2-a 相手はあなたの反応をおもしろがっている


 相手がこっちのリアクションをおもしろがっている場合、ネガティブな方向に行動すると、どう反応しようが相手を楽しませてしまう。で、そのことにより、相手からさらに攻撃を受け続ける被弾スパイラルに陥る。

 動揺して騒いだり、ヒステリックに怒るさまは、荒らしにとっておいしいエサだ。逆に冷静に対応すれば、物見遊山の野次馬はいなくなる。

 ここでいう“冷静に対応する”とは、もちろんスルーだけじゃない。批判してくる相手に対し、穏やかな言葉遣い・物腰で接することも含まれる。あなたが紳士的な態度を取れば取るほど、逆に相手の荒らしの愚かさや、論敵の知的レベルの低さが浮き彫りになるはずだ。

 これは第三者(読者)の目にどう映るか? あなたと荒らし(または乱暴な論敵)はどっちが正しいか? 信頼に値するか? 一目瞭然だろう。

 誹謗中傷やいやがらせを受けたとき、別にあなたまで一緒になって激しい言葉で応じることはない。むしろ冷静に対処することで、あなたの名誉や尊厳は自然に守られるのである。

 ただしもちろん暴言コメントをスルーできなかったり、心ない文章で精神的に衰弱してしまう人はいる。小倉さんが主張されている以下の点は、客観的事実である。

「被害者が気にしなければよい」との呪文で被害者をどう防備するの?』(la_causette)

でも、実際には、いくら外野の人間がお気楽に「気にしなければ済むことだ」といっても、気にせずにはいられないのが人間です。むしろ、執拗な嫌がらせを受けているのに、「お前が気にしなければ済むことだよ。そんなことでみんなの手を煩わせるなよ」みたいなことを言われて、苦しい胸の内を打ち明けることすら許されないような雰囲気作りを行い、かつ、その執拗な嫌がらせを受けている状況が未来永劫続くような絶望感を与えていけば、少なくない人は自ら死を選んだり、精神障害を起こすことにより精神的な苦痛から自らを解放する道を選ぶことにもなりそうです。

 ゆえにスルー支持論を言うときには、他者への配慮と慎重さが必要なのはいうまでもない。

 特に大人とちがって子供の場合、クラスメートとネット上でやり取りしている子も多い。ネットの世界と学校生活が直結しているのだ。そのためネット上のもめごとがリアルの世界(学校生活)へダイレクトに流れ込んでくる。

 大人はネットから離れれば、ネット上のフレーミングから逃れられる可能性が高い。だが子供はネットと学校生活が密接なぶん、逃げ場がなくなり追いつめられる。また一方の大人だって、暴言をかわす精神的余裕のある人ばかりじゃないだろう。

 だからもちろん私は、スルーや紳士的対応だけですべてが解決するなどと主張しているわけじゃない。また言うまでもなく悪いのは加害者(ネットに誹謗中傷を書き込む人々)であり、スルーをすすめること=加害者の罪を問わないことではない。

 ゆえにスルー支持論は、小倉さんがおっしゃるような被害者に泣き寝入りを強いる免罪論じゃない。面白半分で暴言を吐く加害者を減らし、被害を未然に防ぐコミュニケーション術のすすめであることを再度強調しておく。



2-b 正当な議論と誹謗中傷はどうちがうか?


 ekkenさんは、サイトの管理人が不快感を覚える可能性のあるコメントを次の4つに分類している。

  1. 事実確認
  2. 異論・反論・批判
  3. 誹謗・中傷・侮辱
  4. コピペ(荒らし)

 その上で「何か意見を述べる(性格の)ブログ」は、1の「事実確認」と2の「異論・反論・批判」を避けてはいけないとする。

 「オレは言いたいことをいう。だけど他人がオレ様に異論を述べるのはNGだ」というご都合主義を否定しているわけだ。私も賛成である。

 だが私はもう少し細かく分類しておきたい。1や2に含まれるものでも言葉遣いが乱暴だったり、明らかな悪意がある場合、また議論に勝つことだけを目的にした「ためにする議論」は生産的じゃない。だから私はそれらを健全な論争だと思わない。(1)や(2)であっても、正当とはいえない物言いは存在するということだ。



2-c それは攻撃じゃない。攻撃と感じているだけだ


 前回もふれたが、ブログ主が議論という行為になじんでいるかどうかは大きなポイントである。異なる意見をぶつけられただけで“攻撃された”と感じる人が多いからだ。

 たとえば私がスルーの効能を説き、それに対して読者が反対の意見を提示したとしよう。この場合、私は読者に非難されているわけでもなければ、誹謗中傷されているのでもない。我々は単に議論しているだけだ。

 たがいに自分の考えを述べ、意見がちがっていれば比較対照する。相手の意見を自分の中で咀嚼する。そのことで考えが変わったり、自分の価値観とはまったく異なる新しいものの見方に気付く。議論はとてもエキサイティングな行為である。

 もちろん双方の考えが変わらないこともあるだろう。また議論とは複数の人間の意見を一致させ、決を採るためにするものだと考えている人も多い。そんな人は結論の出ない議論を打ち切ったとき、「意味がなかった」とため息をつきがちだ。

 だけど平行線に終わった議論は、本当にただの徒労なんだろうか? 私はそうは思わない。相手は自分に異論を示し、考えるきっかけを作ってくれたのだ。そして考えることは、知的刺激でいっぱいのエンターテインメントだと私は思う。



個人的な意見や嗜好は「あなた自身」とイコールか?


 自分と異なる意見を聞いたとき、拒否反応を示す人は多い。また自分の好きなものを否定する評論に出くわすと、とたんに感情的(ヒステリック)になる人もよく見かける。

 この種の人は、単なる嗜好や意見にすぎないものが自我と同一化している。だから異論に出会うと自分自身を否定されたように感じ、心理的に傷ついてしまうのだ。

 だけどそれらは常に変わる可能性があるし、あなた自身とイコールではない。あなたの主観的な嗜好や意見と、あなた自身。この2つを峻別し、客観的な思考ができなければ、インターネットを使ったフラットな議論は成立しないだろう。


松岡美樹(まつおかみき)

新聞、出版社を経てフリーランスのライター。ブロードバンド・ニュースサイトの“RBB TODAY”や、アスキーなどに連載・寄稿している。著書に『ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け』(RBB PRESS/オーム社)などがある。自身のブログ“すちゃらかな日常 松岡美樹”も運営している。

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