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日本のコンピューター産業の父・和田弘氏が逝去

2007年02月10日 00時00分更新

文● 遠藤諭(アスキー取締役)

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「今にエレクトロニクスが世界を支配する時代が必ずやって来る」


和田弘氏
和田弘氏、『月刊アスキー』1994年4月号

 いまわれわれが生活している基盤を作ったものは何だろう? 1960年代に、得意分野を繊維や造船や精密機械からエレクトロニクス分野に大きく移し変えることに成功したことが、最も大きな要素のひとつではないだろうか? いまの日本には、アニメやマンガなどのコンテンツで食べていくべきだという議論もある。しかし、そうしたコンテンツのひとつひとつも1970年代から1990年代まで、基盤となる産業が人々の生活レベルを、一定以上に保っていたから生まれたものなのではないか? 日本の伝統文化も、アニメやマンガも素晴らしいのは確かだが、電子技術がいまの日本の形を作った部分はけして小さくない。

 さて、そんな日本のお家芸となったエレクトロニクスに“電子技術”という訳語を与え、1950年代に、トランジスタという未知のデバイスに目を付けて、その応用として世界最初といわれるフルトランジスタ式のコンピュータを作った人物がいた。当時、電気試験所(後の電子技術総合研究所、現在の産業技術総合研究所)にあって、日本のコンピュータ産業の育成に尽力した和田弘氏である。

 その和田弘氏が、2007年2月8日他界された(情報処理学会のページ)。実は、2006年12月7日に、日本のコンピュータの黎明期にあって和田氏の良きライバルとして活躍された喜安善市氏が亡くなって2ヵ月も経過していない。

 2005年、単行本『コンピュータが計算機と呼ばれた時代』のために和田氏を訪問したときには、その御年齢とは思えぬ元気さに驚かされたものだった。和田弘氏、喜安善市氏の冥福を祈るとともに、両氏の功績をふり返るべく、同書から両氏の活躍の分かる部分を引用したい。これでも足りないかとも思えるが、日本のエレクトロニクスとコンピュータの大先達のお話である。


計算機からコンピュータへ

コンピュータ産業の成立までの道のり


 1956年、日本最初のコンピュータであるFUJICが完成したその年(昭和31年)に、経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに経済の復興を宣言した。テレビの出荷台数は倍々ゲームのように増加して、1959年の皇太子のご成婚はその普及を爆発的に後押しすることになった。1950年代の中盤から始まった高度経済成長は、日本の国民の生活水準をいやがうえにも押し上げた。1959年には、ホンダがマン島レースへの初参戦を果たし、日本製のトランジスタラジオは世界中でその優秀性をアピールした。日本は、確かに戦後の復興期を抜け、経済大国への第一歩を踏み出した。


 こうした中、産業構造にも変革が起こりはじめる。鉄鋼業などの重工業や繊維産業から、自動車産業や家電産業など現在の日本の得意分野に軸足が移っていく。コンピュータ産業も、そうした変化の波の中で浮上してくることになる。その転機となったのが1957年の「電子工業振興臨時措置法」の成立であり、前後して通産省によって取られたさまざまな施策である。そんなコンピュータ産業の成立に向けての方策の発端の1つとなったのが、電気試験所応用部応用電力課長であった和田弘の1951年のアメリカへの留学である。


 米国から帰った和田は、1954年、なかば強引に電気試験所内に電子部を作ってしまう。そして、1956年、ETL Mark IIIというトランジスタ式コンピュータの開発に成功する。その後、ETL Mark IVが、国産のトランジスタ式コンピュータのベースとなっていく。しかし、コンピュータを作るための技術開発が進めば、それだけで産業が成り立つというわけではない。この間に、コンピュータ開発と並行してさまざまな施策が行われたのである。

  1. 電子計算機調査委員会の設立
  2. 電子工業振興臨時措置法の成立
  3. 電子工業振興協会の設立
  4. IBMとの特許のクロスライセンス契約の成立
  5. 日本電子計算機株式会社の設立


 それは、通産省による“護送船団”ともいうべきもので、日本のコンピュータ産業の確立にあたって、きわめて重要な役割をはたしたとされるものである。これらによって、日本は技術的なだけでなく産業としてコンピュータを作って売れる国になったのは事実だろう。当時、日本のコンピュータ開発を取り巻く状況は非常に厳しいものがあった。1つには、第二次世界大戦による計算機科学に関する情報の不足、そして、それに伴うコンピュータ研究のスタートの遅れがある。まだ、自由に米国に行き来できる時代ではない。進駐軍が日比谷などに作ったCIE図書館などで読める雑誌記事を読んで、想像力をはたらかせることから日本のコンピュータ開発はスタートしたのだ。それはもう、江戸時代に杉田玄白と前野良沢が、「ターヘルアナトミア」を手にしたというのよりも限られた情報だったといっても大袈裟ではない。さらに、復興期から成長期へと経済は変化しようとしていたとはいえ、研究を進めるための潤沢な資金が企業にあったわけでもない。こうした中で、コンピュータ産業が成立しうるとしたら、政府による産業政策というものなしには考えられなかった。

1955年:電子計算機調査委員会に始まる


 電気試験所に電子部を作り、初代部長に就任した和田の強い働きかけによって、1955年、電波技術協会内に電子計算機調査委員会が設置される。委員長は、東京大学の山下英男、幹事は和田弘と電波技術協会の斉藤有であった。この委員会ではコンピュータの産業化を目指してさまざまな活動が行われる。


 その活動の一環として、国外のコンピュータおよび周辺機器の研究があった。1956年、1957年に、周辺機器を購入するための資金として合計約1,000万円が通産省から援助されている。また、国外の特許に対抗するべく、コンピュータに関する特許についても策がとられた。1957年には、当時の代表的なコンピュータ、IBM 650を上回る性能のコンピュータを開発することを目標に、富士通、日立製作所、北辰電気、黒澤通信機、三菱電機、日本電気、沖電気、東京芝浦と共同で計算機の開発が行われた。このプロジェクトは、各メーカーにコンピュータ開発のノウハウは蓄積はしたがコンピュータ自体は完成の目を見なかった。

1957年、1958年:電子工業振興臨時措置法と電子工業振興協会


 電子計算機調査委員会が設立された翌年の1956年、機械工業審議会から電子工業振興策についての中間報告が提出された。機械工業審議会とは、日本の機械工業において弱点となっていた基礎機械部門と共通部品部門を中心に設備の近代化、生産性の向上、生産技術の向上などによる合理化を推進することを目的として、通産省の主導により1955年に成立した機械工業振興臨時措置法(機振法)で定められた審議会である。電子工業の振興策については、この審議会の内部に電子工業振興特別部会が作られ、ここで検討が行われていた。とはいえ、機械工業は戦前から産業として成立していたのに対して、電子工業は――電気通信については戦前からの研究が行われていたとはいえ――新興の分野であった。機械工業の振興策が合理化の推進を主軸としたのに対して、電子工業はゼロからのスタートであり、欧米との差は大きくなるばかりであった。こうした事情から、機振法とは独立して、

  1. 製造技術の向上
  2. 新規製品の工業化
  3. 生産の合理化
を促進するための電子工業振興臨時措置法(電振法)が1957年に立案、可決されたのである。この法案の実質的な立案者は和田弘であるといわれており、彼は国会で説明員として答弁の場にも立ったといわれる。


 さらに、翌1958年には、電振法の趣旨に沿った形で電子工業振興協会が発足。それまで電子計算機調査委員会で行われていた特許対策活動も、このときに電子工業振興協会に引き継がれた。電子工業振興協会は、1958年の11月には、国内メーカーのコンピュータを展示するための計算機センターの設置、プログラム講習会の実施を行うなどハードウェア、ソフトウェアの両面で大きな貢献を果たしてきた。ただし、当時はまだアセンブラもなくプログラムの記述は、内部表現(機械語)で行われており、コンピュータが異なれば命令も異なるような状態であったため、各社の計算機で共通に使える教育用言語としてSIP(Symbolic Input Program)という言語が森口繁一らの手により開発されることになった。


 電子工業振興協会は、2000年に日本電子機械工業会(EIAJ)と統合され、現在の電子情報技術産業協会(JEITA)に至っている。また、電振法は1971年の「特定電子工業および特定機械工業振興臨時措置法」(機電法)、1978年の「特定機械情報産業振興臨時措置法」(機情法)へと続き、通産省によるコンピュータ産業の育成は長きに渡って継続した。1985年に機情法が期限を迎えるとともに日本の電子産業の育成政策は一段落することになった。

1960年:IBMとの特許交渉の成功


 和田を中心として、通産省はコンピュータ産業育成のための組織の設立、法整備に注力していたが、越えなければならない高いハードルはまだほかにもあった。その最たるものが特許である。IBMの持つ特許の使用許可を得ることなく、日本のメーカーが日本の国内外でコンピュータを製造したり、これを販売することはできず、これを何とかしない限りは日本のコンピュータ産業に未来はなかったのである。この問題の解決にあたって、IBMとの交渉を行ったのは通産省重工業局の佐橋滋、平松守彦らであった。一方、IBMの窓口となったのはジェームズ W. バーケンシュトックである。そして、この問題を解決するための武器となったのが、当時のIBMとその子会社である日本IBMをめぐる状況だった。


 日本IBMの前身となる日本ワットソン統計会計機械は1937年に設立され、第二次世界大戦中は敵国財産管理法を根拠として政府が管理する会社とされた。終戦後には連合軍最高司令官の管理下におかれた後、1949年に日本政府が没収していた資産や施設が日本ワットソンに返還された。1950年に日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズと社名が変更され、活動も再開された(1959年には日本アイ・ビー・エムとなる)。なお、この時点で日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズはIBM(つまり海外)の資本率が100%の会社であった。


 ところが、1953年に日本企業の保護育成と海外技術の導入を目的として、外為法(外国為替および外国貿易管理法)と外資法(外資に関する法律)が成立する。外為法では、法律で認められた場合を除き、国外への送金が禁止されていた。一方、外資法は、外国資本の受け入れによる日本経済の活性化を目的として作られたもので、外資法により認可された法人であれば、国外への送金が保証された。だが、日本IBMは外国資本率が100%であり、外資法による認可を受けることができなかったのである。日本アイ・ビー・エムは、100%自社資本の同社を外資法で認可させたいと思っていた。


 通産省は、こうした状況を取引材料としてIBMから特許の使用権を引き出そうと考えた。当時、IBMはエレファント、国内メーカーはモスキートといわれるほどIBMと日本メーカーの差は毅然で、国内メーカーには特許交渉を行うだけの力もなかった。そのため、通産省がメーカーを代表して交渉を行うことになった。日本のメーカーもIBMに対して、提携の持ちかけなどは行っていたが、IBMは各メーカーとの交渉は断った。これは、国内のメーカーとIBM以外の国外のメーカーとの提携において、細かな条件を詰める際に国外のメーカーが最終的には政府と交渉しなければならなかったのを見て、IBMが国内メーカーと交渉をするのは無駄であると考えたものと思われる。


 1957年以降、バーケンシュトックは何度か日本に足を運び、通産省とバーケンシュトックとの間で粘り強い交渉が行われた。交渉が決着を見たのは、1960年も終わろうという時期。交渉が長引いた理由の1つは、IBMがそれを望んだということも原因の1つに挙げられる。当時は、産業保護を目的とした「工業所有権戦後措置令による優先権主張」というものが認められており、国外ですでに取得されている特許でも、日本で同様な特許を出願することが可能だった。これに対して、IBMは交渉を長引かせながら、自らの持つ特許を日本国内で出願、取得し、特許ポートフォリオの基礎を築こうとしたのである。特許を自分の手に置くことによる長期的なメリットを見据えた上で、IBMは短期的には日本アイ・ビー・エムが少々の痛手をこうむってもよいと判断していた。こうして、数年間にわたる交渉の末、最終的には次のような条件で通産省とIBMは合意をした。

  1. 外資法の特例として、日本アイ・ビー・エムの海外資本率100%を認める。
  2. IBMと国内の計算機メーカーの間で特許のクロスライセンスを行う。


 これにより、日本メーカーがコンピュータを製造、販売するためのネックとなっていたIBMの特許という問題がクリアされた。なお、契約の範囲は全世界、その期限は5年であり、現在も5年ごとに契約が更新されているという。


 また、この動きと前後して、欧米との技術力の格差を縮めるため、日本メーカーは、米国のコンピュータメーカーと技術提携を進めていった。日立はRCAと、三菱はフランスのTRW(Thomson-Ramo-Wooldridge)と、日本電気はハネウェルと、沖はレミントンランドと、東芝はゼネラルエレクトリックといった具合である。

1961年:日本電子計算機株式会社によるレンタル制


 IBMとの特許交渉に成功したことで、国内メーカーがコンピュータを製造、販売することが可能になった。だが、それでもなお問題は残っていた。つまり、コンピュータのコストは非常に高くつくものなので、これが製造側にも利用者側にも大きな負担となっていたのである。


 メーカーにしてみれば、コンピュータ開発には多額の経費が必要になるから価格は自ずと高いものになる。しかも、それを買い取ってくれる企業があるかどうかもわからない。そして、ユーザーとなる日本の企業で、高価なコンピュータを購入できるだけの体力を持つところも多くはなかった。そこで、メーカーとユーザーの両者が安心して、コンピュータを製造、利用できる仕組みが必要となり、レンタル会社が作られることになる。


 1961年、国内メーカーのコンピュータのレンタルを行う目的で、日本電子計算機(JECC)が設立された。これにも和田や平松といった通産省でコンピュータ産業を目指した人物たちが関わっている。当初の予定では、半官半民でのレンタル会社(資本金20億円)となるはずだったが、国側からの資金投下の目処が立たず、富士通信機製造、日立製作所、三菱、日本電気、沖電気、東京芝浦電気、松下電気の7社による出資で設立された(資本金は、当初の予定の半分の10億円。松下電気は、1964年のコンピュータ事業の撤退とともにJECCからも外れている)。


 JECCのレンタル制度では、ユーザーとのレンタル契約終了後、メーカーが簿価でコンピュータを引き取ることになっていたためメーカーにとっては一概によい制度だったとは限らなかったようである。とはいえ、メーカーは製造したコンピュータをJECCに売却し、ユーザー側も巨大な額の資金を一度に用意することなくコンピュータを利用できるようになった。JECCはメーカーにとっても、ユーザーにとってもコンピュータ導入のためのはずみ車の役割を果たしたといえる。

情報処理学会と「計算しない計算機」


 通産省による一連の動きの一方、1960年には学術面での大きなできごともあった。情報処理学会が設立されたのだ。この発端となったのが、発足の約1年前、1959年にパリで開催された第1回情報処理国際会議である。ユネスコが主催したこの会議では、第2回以降の会議を主催する団体を設立するための打ち合わせが行われる。ユネスコはそれ以降の会議については、情報処理に関する各国学会の連合体による開催を推奨したのである。その結果、1960年1月1日に情報処理学会国際連合(International Federation of Information Processing Societies、IFIPS。ただし、略称は後にIFIPとなる)が発足する。


 このとき、日本には情報処理を対象とした学会がまだ存在していなかったことから、新しく情報処理を扱うための学会を設立することになった。山下英男を会長として、1960年4月1日に情報処理学会が設立され、同年6月に開催されたIFIPSの第1回総会にも他の14か国とともに参加している。


 情報学会誌「情報処理」の第1号には、情報処理学会の創立総会での和田弘による「計算をしない計算機」と高橋秀俊による「電子計算機の将来」の2つの講演が掲載されている。前者は当時のコンピュータの主な用途であった数値計算ではなく、パターン認識、外国語翻訳、文章の要約、データの検索の方法論についての議論が展開されている。後者では将来のコンピュータに求められる役割として計算機間での通信やプログラミングの簡易化、数値計算以外のサービス――たとえば、図書館での文献検索や電話番号検索――の提供などが挙げられている。1960年という時代において現代のコンピュータのあり方を指摘したこの2つの記事は、当時としてはきわめて示唆的な内容だったといえる。日本国内における情報処理技術の発展と普及を推進するべく、情報処理学会が行ってきた活動は多岐にわたり、日本語文字コードの策定をはじめとして、そのコンピュータ産業への貢献は大きい。

もう1つのコンピュータ産業への手がかり


 日本のコンピュータ開発の特殊性は、通産省による積極的なエレクトロニクス産業への取り組みもあるが、より際だっていたのが、パラメトロン式コンピュータの存在である。後藤英一によって発明された、まったく日本独自の論理素子であるパラメトロンは、当時のデバイスの価格や安定性と日本の関係者の経済状況から大いに歓迎された。パラメトロンをコンピュータ産業を作りあげるべく奔走したのが、電気通信研究所にいた喜安善市である。


 1948年、GHQの指導により、逓信省の付属機関だった電気試験所が、商工省(後の通産省)の電気試験所(後の電子技術総合研究所、現在の産業技術総合研究所)と逓信省の電気通信研究所(通研、現在NTTに付属)に分離される。電力部門が商工省に移された形となり、電気通信分野の研究は、電気通信研究所の役割となった。同じくスイッチング回路を使う電話の交換機があったことを考えると、通研のほうがコンピュータ開発の近い位置にいたともいえる。喜安は、1948年5月に、トランジスタの発明を知ったという。情報公開の一週間ほど前にGHQに情報が届き、電気通信研究所の初代所長となる吉田五郎が「日本としてのトランジスタの利用方法を何か考えろ」と指示されたのだ。通研では、岩瀬新午らがトランジスタを製作するが、当時のトランジスタは「かげろう管」といわれるほど劣化が早かった。そこで、喜安は、安定した素材であるダイオードに角形ヒステリシスの磁心を組み合わせた素子を使ったコンピュータに取り組む。しかし、その研究を始めて数ヶ月したところで、1954年、パラメトロン素子が誕生する。

パラメトロン×トランジスタの同居時代


 トランジスタが十分に安定しておらず、きわめて高価だった時代に、トランジスタ以外の論理素子を使ったコンピュータが作られた例は海外にもある。コンピュータの固体回路化に最も積極的だったメーカーは、UNIVACであり、1958年に「USSC」(Univac Solid State Computer)を発表する。これは、磁気増幅器を論理素子として使用しており、約100台が出荷されたというから当時としては成功だろう。


 日本のパラメトロンもまた実際に商用のコンピュータが出荷され、実用に供されたという点ではこれと並べられる例といえる。パラメトロンといえば、動作スピードが遅い点が欠点として指摘されるが、当時のトランジスタが安定性確保のために低いクロック周波数だったことから、むしろ高速でさえあった。そして、なによりも新しい技術を生むことが少ないと言われていた日本で、まったく独自の技術だった点が、喜安らには一層輝いて見えたに違いない。


 1957年に、喜安の旗振りのもと、室賀三郎、高島堅助などが、最初のパラメトロン式コンピュータであるMUSASINO-1を完成する。そして、通研の指導のもと、日立の「HIPAC MK-1」、日本電気の「NEAC 1101」などが作られた。1950年代の終わりから1960年代のはじめにかけて、日本の多くのメーカーが、パラメトロン式コンピュータとETL Mark IV型のトランジスタ式コンピュータの両方を開発しているのである。

日本人の美意識に訴える


 通研のMUSASHINO 1と前後して、パラメトロン素子を生んだ東京大学理学部高橋秀俊研究室で「PC-1」、「PC-2」というパラメトロン式コンピュータが作られる。大学の研究室で作れてしまうところが、まさにパラメトロンの素晴らしいところだった。1958年3月に完成したPC-1の記憶装置には、これまた同研究室独自の「2周波メモリ」という特殊な磁心記憶装置が用いられていた。パラメトロンが支持された理由の1つに、日本人の美意識に訴える回路の美しさがあったという。イニシシャルオーダーを書くなど、パラメトロンに関わった和田英一の言葉を借りれば、「パラメトロンはロジックがエレガントなんですよ。多数決論理で0と1をすべてひっくり返しても成り立つというような回路だから、ANDとORで作るよりもはるかにきれいに回路ができる」となる。日本人が考えた素子であり、かつ日本人の心の琴線に触れる回路となったというのは楽しい話ではないか? 「トランジスタみたいに、どうやってコンパクトにするかなんて、考える必要もなかった。本当に楽しかったですよ」という和田英一の言葉に、この素子の持っていた本当の意味が隠されているかもしれない。まず論理素子を開発して、それから方式設計をして、システムプログラムを作って、その上で動作するアプリケーションを書いて、そして自分たちで使ってしまう――コンピュータの隅から隅まですべて自分たちで関われるのだから充実していたに違いない。


 そんなふうに作られたPC-1やPC-2は、実際の計算に役立てられた。たとえば、これも和田英一によれば「シュレディンガー方程式を1回解くというのは、タイガー計算機を回すとか、電動計算機を叩いて、1か月くらいかかった『ああ、1本解けた』というもの」だった。その頃、物理学の研究室にはタイガー計算器やフリーデン、マーチャントといった米国製の電動計算機があり、そこでは大学院生が計算の手順書をアルバイトに渡し、1日中、ガチャガチャという音が聞こえてきていた。そうした計算がパラメトロン計算機を使えば、一晩で済んでしまう。それどころか、一晩で何本も解けてしまうのだ。これを使った他学部の研究者たちから「人生が変わった」という声が聞こえてきたという。パラメトロンの発明とパラメトロン式コンピュータは、世界のコンピュータ産業の流れとは隔絶したところで、ちょっとした理想郷を生み出していた。

パラメトロンが残したものはなにか


 日本のコンピュータに、旋風を巻き起こしたといってもよいパラメトロンだが、その時代は1950年代後半から1960年代のはじめまでである。パラメトロンの最大の長所はその安定性にあったが、トランジスタの安定性が増していったことで、動作速度、発熱、消費電力、大きさなどの点で、トランジスタに対する優位性は薄れていった。一方、トランジスタ式コンピュータは、IC、LSIと集積回路技術への道筋を作ったといえる。いまも、速く、小さく、消費電力の少ない回路を求め続けているこの世界においては、トランジスタが適者生存の権利を得るのは時間の問題だったといってもよい。


 パラメトロンという独自の素子が誕生したことは、日本のコンピュータ産業の進化にとって無駄だったという声もあるという。これに関しては、パラメトロンの当事者の1人である高橋秀俊が、いみじくも書いている。


 「パラメトロンは日本で生まれた数少ない技術の一つとして世の中からも注目をあび、また関係者一同はみな張り切って、産学協同でその研究開発に尽力した。そして1960年前後の頃日本の電子計算機技術は遅ればせながら自信と誇りを持って世界の学会、産業界にデビューすることができた。パラメトロンのその後は日進月歩のトランジスタに押され気味で、今日の電子計算機技術に占める地位は重いとはいえないのは残念なことである。そこでパラメトロンは日本の電子計算機工業にとって大きな道草であったという人もあるわけであるが、私にはそうは思えない。我々は本当に新しいものを研究開発することがいかに困難の多いものかを体験で知ったと同時に、また未踏の地を開拓することがいかに技術の伝統というようなものをつくり上げるものだとも悟った」(『パラメトロン計算機』岩波書店刊、1968年刊)。

奔走した2人のプロデューサー


 パラメトロン式コンピュータを推し進めた喜安善市も、電気試験所の和田とともに、日本のコンピュータ産業の誕生には重要な役割をはたした人物である。


 電気通信研究所では、室賀三郎がイリノイ大学に1年間留学して、当時、先端的なILLIACに触れて帰ってきた。持ち帰った資料から技術的なことだけでなく、IBMなど米国のコンピュータ産業の急速な伸びを知ることができた。喜安は、コンピュータを作れるようなメーカーの育成、IBMに対抗しうるようなコンピュータメーカーの育成が急務であると考えた。そして、通信メーカーに照準を絞り、その育成に力を入れる。当時、通信メーカーは、戦前に逓信省の松前重義の指導のもと、通信機器をなんとか国産化したという経験があった。


 和田と喜安は、ある部分ではまったく対照的に見える。和田は、渡米してトランジスタの可能性を実感して帰国、喜安は、日本で発明されたばかりのパラメトロンに着目する。米国生まれのトランジスタに対して、まったく日本独自のパラメトロン。和田はトランジスタで得られる高性能を、喜安は安く作れる上に遅くても止まらない安定性を取る。しかしながら、和田も喜安も、日本の未来はエレクトロニクスにあり、その中でもコンピュータが重要な役割を果たすという考えでは、まったく一致していた。日本電子計算機株式会社の設立や、電子工業振興協会での特許調査会などでは、喜安は、和田らと協力しながら活動する。和田が、「情報処理学会」の設立に動いたのなら、喜安はコンピュータ専門誌『bit』の創刊を促したといわれる。


 どちらも強烈な個性の持ち主で、和田に関していえば、その名前を聞いただけで、誰もがある共通した感覚に行き当たる。いかにも豪快な人物で、役人であろうが誰であろうが、気にせず喝破してしまう。業界に敵も多ければ、頼りにしている人も多かった。一方、喜安は、自身が研究者でもあるのだが日本再生に賭ける情熱では負けていなかった。そして、ふたりとも日本復興の道を鋭く見抜く目を持っていた。『電子立国日本の自叙伝』(相田洋著、日本放送出版協会刊)に、和田のもとにいた菊地誠(後にソニー)が、トランジスタに取り組みはじめた当時、和田が、口ぐせのように言っていたことを伝えている。


「エレクトロニクスがありゃ何でもできる。今にエレクトロニクスが世界を支配する時代が必ずやって来る」


 このまるで50年後の現在を見通したかのような強い確信が、彼らにはあったのだろう。和田、喜安の2人のプロデューサがいたことが、日本のコンピュータ産業成立の上では、きわめて重要な役割をはたしたといえる。

コンピュータが計算機と呼ばれた時代』(C&C振興財団編、アスキー刊)。



(追記) 明日の日本のイノベーションのために
 和田弘氏が亡くなられたのは、おりしも(社)情報処理学会が、経済産業省に対して“コンピュータ博物館設立の提言”をして1週間たったところだった。一般の人たちの産業技術史への興味が高いことは、しばらく前になるが、NHKの『プロジェクトX』などを見ても伺える。テクノロジーは、日本人がそれを信じて生きることができた、いわば宗教なのだといったら短絡過ぎるだろうか? これからも誇りと勇気を持ってテクノロジーの世界で活躍できるよう、それは記録されるべきなのだ。

■関連サイト

書籍の引用部分に関して、一部修正を行ないました(2007年2月13日)

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