自分のペースを見極めて 仕事も暮らしも楽しめる老後を過ごしたい

文●晴山香織 撮影●伊東武志

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 工務店の社長を務めていた井手さんは今、一人で働いて生活するコンパクトなスタイルを楽しんでいる。今の暮らしにたどり着くまでの道のりを聞いた。

いまは年に3〜5軒ほどの物件を担当。以前手がけた住まいや店舗のリノベーションを中心にしつつ、新規も受けている。自宅で設計やデザインの仕事のほか、現場監督もこなす。

離婚をきっかけに就いた代表取締役。プレッシャーを抱える日々

 鎌倉・湘南地方を中心に独創的な家づくりをすることで知られていた「パパスホーム」。井手しのぶさんは、その代表取締役として活躍していた。

 「元夫と立ち上げた会社でしたが、離婚をきっかけに私が一人で請け負うことに。最初のライフシフトはこの時だったと思います」と振り返る。それまでは、ガーデンデザイナーとしての仕事が中心だった井手さんが、代表として働くことに。一気に仕事の量も幅も増え、同時にプレッシャーも重くなっていった。建築デザイナーとして空間の設計やお客様とのやりとりはもちろん、会社の経営者として全体の業務を見ながら、資金面や税務関係のことまでをやるようになったという。

 「あまりのプレッシャーに食事ができなくなって痩せましたね。スタッフを抱えて一人でできるんだろうか、と。でも、幸いにも、図面や現場管理、経理など専門的なことはスタッフが担ってくれていたので、本当に助けられました。私はお施主さんたちに説明しつつ、取り掛かっていた仕事や新規の案件を滞ることなく進めることに専念できたんです。無我夢中で、とにかく『やらなくちゃ』という気持ちだけで進んでいました」

 仕事以外に育児も一人でやらなければいけなくなった。当時、息子さんは15歳。家事も育児もこなすのは、慣れない仕事に奮闘するなかではさぞかし大変だったはずだ。

 「さらに犬が3匹もいたから途方に暮れることもありました。きちんと子育てできたかは分からないけれど、とにかく、ご飯だけはしっかり作ろうと決めて、必死にやったと思っていますよ」

セミリタイアするなら住まいも暮らしもコンパクトに

 「離婚するときに元夫から『俺がいなくなったら、この会社は3ヶ月で潰れるぞ』って言われていたんです。だから頑張れたのもあるかもしれません。15年続けられたらいいなと思っていたけれど、それ以上できていた。ずっと走り続けてきて、そろそろ肩の荷を下ろしたいと考えるようになっていました」

 代表を引退し、会社を譲ろうと考え始めたのが、井手さんにとって再びのライフシフトになった。50歳を過ぎ、これからの生活を考えてざっくりとした計算をしてみたという。

 「会社を譲って、当時住んでいた家と賃貸に出していた家を売ったら……会社の借金を返せて、さらに一人で暮らせるくらいのお金が残るかな、と。一生懸命働いたし、もう自分の時間を持ってもいいんじゃないかと思うようになったんです」

 かねてから、90歳までの人生を考え、暮らしをできるだけコンパクトにしたいという思いもあったという。年齢を重ねても気持ちよく過ごすには、自分で無理なく管理できる物量に減らし、整理整頓も掃除も手軽にできる方がいい。そんな生活を思い描いたときに浮かんだのが、コンパクトな平家だった。

 「老後の資金をプールしておき、ローンを組まずに建てられる家を考えたことも大きいです。場所はどこでもよかったけれど、やっぱりなじみがある方が暮らしやすいかなと思って、鎌倉や湘南エリアで探して見つけたのが、この土地だったんです」

 鎌倉駅から徒歩20分ほどの小さな丘の上。荒れていた竹藪を整備し、自身のデザインをもとに、それまで付き合いのあった職人さんたちに力を貸してもらいながら、今の住まいができあがった。井手さんにとってはこれが7軒目の家になる。

 この家は17坪ほどの広さ。以前は30坪近い住まいだったので、持っていたものを1/5の量にまで減らしたという。

 「洋服類はウォークインクローゼットに入る分だけ。食器も本もそれぞれの棚におさまる数に。結果として好きなものだけが残ったので楽しいし、管理もすごく楽です。暮らしをコンパクトにするなら、ものを減らすことが大切なんだと実感しました」

 物量を減らした代わりに手に入れたのは、それまでの家では実現できなかった庭や畑。遠くに海を眺めながら、好きな植物の手入れをしたり、野菜の世話をするのは何より楽しい時間だという。

 「日当たりがいいから、なんでもよく育つのよ。海辺の家では塩害で何もできなかったし、鎌倉山の家は小さい庭しかなかったから、ここはやりがいがあって楽しいんです」と嬉しそうに教えてくれる。

 1年前、その庭先にさらに一軒の小さな家を建てた。息子さんが暮らすスペースだ。

 「愛犬の看病があって、身体的にも心理的にも大変な時期に心配してくれたのか、一緒に住むと言ってくれて。この平家だと狭すぎるから思い切って建てたんです。ありがたいことだけれど、最初はウザかったなぁ(笑)。こんなに近くで暮らすのは10年以上ぶりですから。1年かけてお互いにいい距離感が分かって、今は快適に暮らせています」

 一緒に食事をすることもあれば、顔を合わせない日もあるという。お互い、干渉せずに暮らしているとはいえ、いざという時にはすぐに頼れる存在。庭のスペースと引き換えに得た安心感は、きっと時間が経つほどに大きくなっていくはずだ。

「社長を引退し、ものを減らし、家も小さくしたことで、気持ちもスッキリしました」と話す井手さん。何度も自身の暮らしについて考えてきたからこそ残すものと手放すものを見極められたのだろう。

一人でできることを見極めて仕事を続けていく

 朝はゆっくりと愛犬の散歩に行き、帰ってきたら掃除と庭仕事。買い物に行って食事を作って食べ……というのんびりした生活ができるかと思いきや、そこにまた仕事が入り込んできたという。

 「そういう暮らしがしたくてこの家を建てたはずなんだけどね。ありがたいことに以前の繋がりからのお仕事の依頼がいくつかあって、受けることにしたんです」

 人の暮らしは変化していく。家族が増えたり減ったりし、変わった暮らしに合わせて改装したいという気持ちになるのだろう。井手さんに考えてもらった家だからこそ、また同じように改装もお願いしたい、と。

 「一人でできることはやるけれど、相変わらず『抱え込まない』ようにはしています。まわりに頼れることはお願いする。自分にできる範囲のことをきちんとやる。プライベートの時間もきちんと確保できるようにやりくりしています」

 この平家を建てた意味を見失わないように。暮らしも仕事もコンパクトにしながら、自分に合ったリズムをキープする。50歳をすぎて手に入れた生活がいかに充実しているかは、井手さんの笑顔を見れば伝わってくる。

 「20代からガーッと働いて53歳手前でパッとやめて。今は自分のペースで働けているし、生活もまわっていると思います。じつは、秋にパリとメキシコに旅行する予定なんです。年齢を考えると最後の海外旅行かなと思ってね。その後は国内の温泉でもまわろうかな。そのためには身体を大切にして、仕事もして稼がないとね」と、嬉しそうに教えてくれた。

小さい平家だというものの、窓を開ければ目の前には広い庭と遠くに海が見える特別な場所。好きな植物の世話もでき、気持ちのいい空気が満ちる空間は、井手さんにとって終の住処となる予定だ。

Profile:井手しのぶさん(建築デザイナー)

 いで・しのぶ/1961年、東京都生まれ。工務店「パパスホーム」を立ち上げ、独創的でナチュラルな家づくりが人気に。代表取締役として活躍後、引退。セミリタイア後は「atelier23.」を主宰し、フリーの建築デザイナーとして一般住宅のリノベーションや店舗設計、庭のデザインなどを手がけている。

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