今年20周年を迎えたThinkPad。1992年に登場したThinkPad 700Cからデザイン・機能の両面で変わらない価値を提供してきた。一方で、今年はシリーズ初となるウルトラブック「ThinkPad X1 Carbon」も登場。キーボードも伝統の7段配列から新しい6段配列に一新され、今後の20年を切り拓いていく新しい価値を模索していく段階にもある。
初代のThinkPadはどのような経緯で生まれ、どのような進化を遂げたのか。そして日本でノートブックを開発する意味は? ThinkPadシリーズの誕生からその進化の歩みの中で、その開発に深く携わってきたレノボ・ジャパンの取締役副社長 内藤在正氏を、元月刊アスキーの編集長であり、モバイルパソコンの進化をリアルタイムに見てきた角川アスキー総合研究所の遠藤 諭が斬る。
ThinkPad前史:日本から世界を目指すマシンを
── 20周年を迎えたThinkPadが、20年かけて体現した“哲学とブランド”についてお聞きするというのがこの取材のテーマです。開発拠点を日本に持つ意味や、モバイルパソコンが今後どういう未来を切り拓いていくべきかといった部分にまでお話を広げられればと思っています。
遠藤 「取材前にハードディスクを漁っていたら、ちょうど10年前の取材のメモが出てきたんですよ。改めて読み直して、ThinkPadの哲学にはブレがないことを実感できた。いまのThinkPadのあり方と驚くほど同じだという点に気付かされました。
まずはその哲学からという話ですが、やはり一番最初のThinkPadの話には触れないといけないでしょうね。20周年ということは1992年ですね……当時の僕は月刊アスキーの編集長でした。DOS/V※1が普及するタイミングに歩調を合わせて、といったところでしょうか」
内藤 「そうですね。タイミング的にはちょうど同じです。ただし、日本アイ・ビー・エムの大和研究所に持ち運び可能なパソコンの開発部隊ができたのは、私が合流するよりもっと前の1987年ごろだったと思います。ご記憶にあるかどうかは分かりませんが、ミシンのような形の『IBM P70』とか──」
遠藤 「ありましたね、P70! ハンドルが付いて持ち運べる。あれはIBM 5550の流れを汲んだものなんですかね」
内藤 「いいえ違います。IBM PS/2ですね。大和研究所つまり日本から、初めてワールドワイドに向けて開発をしようと考えた機種がIBM P70なんです」
遠藤 「IBM 5550は“マルチステーション”を標榜していましたが、企業向けの文化から生まれたものですよね。企業向けのパソコンで、ある意味IBMの伝統と文化を受け継いだ機種というか」
内藤 「そうですね」
遠藤 「一方、当時は企業でもパソコンにいく流れが出てきて、世の中もIBM PS/2のような互換機の方向に進んでいた。ここではそこに深く入っていくことはしませんが、いずれにしてもIBMが、日本から世界に向けて最初に出した機種がIBM P70だったという認識で間違いないですか?」
内藤 「はい。私はちょうどその時期アメリカに赴任していて、本社の側からIBM P70の開発を見たり、支援をする立場にいたのですが」
遠藤 「大和研究所ではなく、ということですね」
内藤 「そのときは違いました。でも、大和のオフィスはいつどんな時間に電話を掛けても、誰かが出てくれるんですよ。午前2時だろうが、午前3時だろうがお構いなしに。ここにはすさまじい開発部隊がいるんだなと。そう思った直後に日本に呼び返されて、大和に行かされることになるんですが(苦笑)」
※1 DOS/V(ドスブイ)はIBM PC/AT互換機上で稼動するOS。専用のハードを追加せず、ソフトだけで日本語表示を可能とした。日本IBMが1990年に発表。日本でPC/AT互換機が普及するきっかけを作った。当時国内で高いシェアを持っていたPC-9801シリーズとの対比でDOS/V=PC/AT互換機、転じてPC/AT互換機用のパーツを使ったPC自作というニュアンスを込めて用いられることもあった。
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